ヨハネによる福音書18章15~18/25~27節
説教者 山岡創牧師
◆ペトロ、イエスを知らないと言う
18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
◆ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う
18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
「問われるペトロ」
エルサレムの郊外、キドロンの谷の向こうにある園で、主イエスは、兵士や下役(したやく)たちによって捕(とら)らえられました。そして、大祭司の屋敷に連行されます。そこに祭司長、長老、律法学者たちが集まり、ユダヤ人の宗教・政治の決定機関である最高法院が開かれ、その席で、主イエスは尋問(じんもん)され、裁(さば)きを受けることになりました。
その時、弟子たちは何をしていたのでしょう?マタイとマルコによる福音書(ふくいんしょ)には、弟子たちが皆、主イエスを見捨てて逃げ去った、と書かれています。その後、ペトロは引き返し、事の成り行きを見ようとして、大祭司の屋敷の中庭にまで入って行ったとあります。その場で、ペトロは、周(まわ)りにいた人々から、お前もあの男の仲間だろう、と問われて、そうではない、あの人を知らないと3度、否認してしまうのです。
一方、ヨハネによる福音書では、主イエスが「わたしを捜しているのなら、この人々を去らせなさい」(8節)と兵士や下役たちに言って、自分が捕(つか)まる代わりに弟子たちを逃がしたようなニュアンスで書かれています。その後、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従っ(て)」(15節)、大祭司の屋敷まで行っています。
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それにしても、この場面には色々と疑問が湧いて来ます。と言うのは、主イエスを捕らえた祭司長や律法学者たちが、一味である弟子たちを、そう簡単に逃がすだろうか、主イエスの共犯者として一網打尽(いちもうだじん)にし、始末したいと考えるのではないか、と思うからです。祭司長たちは見逃すはずがありません。逃げ去った弟子たちを捜し出し、主イエスと一緒に処分したいと考えるでしょう。にもかかわらず、弟子たちはその後、不思議なほどに追及されていません。どうしてでしょうか?
他方、ヨハネによる福音書では、主イエスが弟子たちの身代わりとなって、弟子たちを逃がしたように書かれていると、先ほど言いました。もしその取り引きが成立したのなら、弟子たちが逃げられたのも、その後追及されなかったことも納得できます。けれども、それならばどうして、ペトロともう一人の弟子はわざわざ大祭司の屋敷まで行ったのでしょうか?しかも、もう一人の弟子は大祭司の知り合いとしてペトロを仲介しているのです。見逃してもらったのなら、そのまま逃げるのが自然な成り行きではなかろうか、と思うのです。
そんな疑問を考えていると、福音書には描かれていない“事実”が、これらの記述の裏にあるのではないか、という想像が湧き上がってきます。
既に天に召されましたが、カトリックの小説家である遠藤周作さんが『イエスの生涯』(新潮文庫)という著書を書いておられます。その中で、“私の推測”として、遠藤周作さんは次のようなことを書いておられます。
ここでは、四散(しさん)した弟子たちが協議した結果、ペトロが代表者となって、大祭司カヤパを知っている者を仲介人として自分たちの助命を願い出たのだと言っておこう。もちろん、これは私だけの仮定だが、しかしこの弟子たちの心理とその後の彼らの行動を見て、彼らが衆議会から「追及されなかった」ことは疑いない。そこに弟子たちと衆議会のある取引きのあったことが想像できるのである。(前掲書156頁)
‥‥更に官邸においてペトロを尋問する女中や人々は、文字通り女中や番人と考えていいだろうか。私は共観福音書(きょうかんふくいんしょ)に使われている「人々」という曖昧(あいまい)な言葉をイエスを裁いた祭司たちと考える方が妥当と思う。言い換えれば、ペトロは他の弟子たちの代表として衆議会の裁判をイエスと共に受けたのだ。そして彼は衆議会の議員祭司の前でイエスを否認することを「烈(はげ)しく誓った」のである。
イエスを否認することを烈しく誓約したため、またヨハネ福音書に書かれている仲介者のとりなしで、衆議会と弟子グループの妥協は成立した。弟子たちの罪はすべて不問に附(ふ)され、彼らはその後の追及をまぬかれたのである。言わばイエスは全員の罪をいっさい背負わせられる生贄(いけにえ)の子羊となられたのだ。(前掲書208頁)
えっ!本当にそうなの?と驚かれるかも知れません。本当かどうかは分からない、あくまで推測の域を出ません。けれども、私も、4つの福音書に描かれている様々な表現や言葉を合わせて考えてみると、それが事実に近いのではないかと思います。
あるいは、衆議会すなわち最高法院で裁判を受けたのは、ペトロ一人ではなかったかも知れない。弟子たちは皆、捕らえられ、その場に連行されていたかも知れない。それを主イエスが、“私が罪を負い、処刑されるから、この者たちは赦(ゆる)してほしい”と大祭司に願い出たのかも知れない。“それなら、弟子たちは、イエスとは一切関(かか)わりなし”とこの場で誓え、誓約せよと言われて、弟子たちは恐怖とわが身かわいさから、誓ったのかも知れない。それが、福音書においてペトロが主イエスを否認する言葉となって記されているのではないか。そんな推測もあり得ると私は考えています。
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いずれにしても、ペトロは、あるいはペトロを代表とする弟子たちは、何らかの形で主イエスを否認し、自分たちは弟子とは「違う」と誓うことによって、裁きを免(まぬが)れたのでしょう。けれども、主イエスを否認しながら、実はペトロが否認したのは“自分自身”だったのではないでしょうか。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」(17節)と問いかけているのは女中や人々ですが、彼らを通して、ペトロは“神”に問いかけられている。ペトロは神さまの前に立たされているのだと思うのです。
私は、今日の聖書の場面から、ふと、旧約聖書・創世記3章に描かれているエデンの園(その)の物語を連想しました。エデンの園で、神さまの言葉を守って生きていたアダムとエヴァは、蛇にだまされて、禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまいます。すると、神さまのように賢(かしこ)くなるどころか、善悪を知り、自分の犯したことが罪であると知って、罪を覆(おおい)い隠し、神さまに見つからないように木の陰に隠れるのです。
やがて神さまが園にやって来て、二人の姿が見えないので、「どこにいるのか」(創世記3章9節)と呼びかけられます。それは、どこに?と“場所”を問いかけているように見えて、実は“関係”を問うものです。場所とは本来、基準となるポイントがあって初めて、場所が特定されます。そのように、“神さま”というポイントから見て、あなたはどこにいるのか?という問いかけであり、つまり神さまはご自分との関係を確認しているのです。“あなたは、わたしが造り、わたしの愛する者ではないか”という問いかけであり、確認です。
私は、この神さまの問いかけが、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」とペトロに尋ねた女中の問いと重なる気がするのです。主イエスというポイントから見たペトロの位置、主イエスとの関係が問われているのです。
エデンの園に戻りますが、アダムとエヴァは、隠しきれないと思い、禁じられていた木の実を食べてしまったことを告白します。どうしてそんなことをしたのか?と問いかける神さまに対して、アダムはエヴァが取ってくれたので食べたと、またエヴァは蛇にだまされて食べたと責任転嫁(せきにんてんか)をします。自分の罪を認めて、素直に神さまに謝るのではなく、自己弁護をして、自己正当化をして、自分を守ろうとし、だれかのせいに、何かのせいにする。それは、神さまとの関係を打ち壊したようなものです。罪の影におびえ、罰を恐れるあまり、神の愛を信頼できず、神さまに造られ、愛されている“自分”を否定してしまったのです。
ペトロは、女中から「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問われて、それを否認しました。その問いは、女中を通して語られた、ペトロに対する神さまの問いかけです。自分を守るために、ペトロはその関係を否認しました。自分を守ろうとして、ペトロは、自分は“何者か”という最も大切な自分の根底(アイデンティティー)を打ち壊したのです。
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“お仕事は何ですか?”。高麗川(こまがわ)の向こう側の家庭菜園で、そう聞かれたことがありました。“川の向こうで自営業をしています”と答えました。笑い話のようで、実はその時、私は、主イエスとの関係を否認したのかも知れません。今後はクリスチャンとして、牧師として見られるようになる面倒さとか、宗教に対する誤解から関係が悪くなったらどうしよう、とか、そんなふうに自分を守ることを考えたのです。“お仕事は何ですか?”、あの問いかけは私にとって、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」という神さまの確認の問いかけだったのです。その問いかけに、私も「違う」と答えたのです。
私たちはそんなふうに、日常生活の中で“エデンの園”に立たされることがあるのではないでしょうか。神さまから「どこにいるのか」と問われ、“あなたも、キリストの弟子ではありませんか”と確認されることがあるのではないでしょうか。ただ単に、だれかの問いかけに“クリスチャンです”と答えさえすればよい、という問題ではありません。人の言葉、人との関係、生活の中で起こる出来事や置かれている状況、抱(かか)えている問題‥‥そういった様々な事柄を通して、クリスチャンとして、神さまを信じ、その愛を信頼して、真実に応(こた)え、また人を愛する生き方が問われているのです。けれども、その問いかけにまっすぐに応えられず、隠れようとする自分が、私たち一人ひとりの内にいるのではないでしょうか。
18節の御言葉(みことば)が象徴的です。「僕(しもべ)や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」。ペトロが、一緒に立って、火にあたっていた僕や下役たちとは、いったい何者でしょうか?主イエスに反対し、裁き、処刑しようとしている祭司長や律法学者たちの手下です。主イエスを捕らえた人々です。その彼らと、ペトロは一緒に立っているのです。それは単に、一緒に火にあたっているということではなく、ペトロが彼らと一緒に、同じ精神的位置に立っているということ、つまり彼らと同じ心根(こころね)をペトロが持っていることの象徴的な表現だと思います。彼らと同じ自己正当化を、自分を守る保身を、嘘と不真実を、悪意を、“罪”をペトロは抱えているのです。主イエスを十字架に架(か)けた人々と同じものをペトロも抱えて生きている。そしてそれは、私たちも同じではないでしょうか。言わば、主イエスを十字架に架けたのは、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々とその一味だけではなく、ペトロであり、弟子たちであり、私たちなのではないでしょうか。
あなたは“何者”ですか?そう問われたら、だれが胸を張って“私は主イエスに従うクリスチャンです”と答えられるでしょうか?“私は主イエスを見捨て、裏切った弟子です”。そう言わざるを得ない。それが私たちの姿でしょう。そう、私たちは神さまの前に立った時、“罪人”なのです。
そんな罪人である私たちが、主イエスに愛されて、主イエスの身代わりの死によって神さまに罪を赦されて生かされる。自分の力ではなく、その愛と赦しの中で復活する。この救いの恵みと出会い、信じた時に、私たちは自分を受け入れ、肯定し、勇気を持って立ち上り、生きていくことができるのです。
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