坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年4月5日 受難節第6主日・棕櫚の主日礼拝説教  「成し遂げられた救い」

ヨハネによる福音書19章28~30節

説教者 山岡創牧師

 

19.28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇(かわ)く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19.29そこには、酸(すっぱ)いぶどう酒を満たした器(うつわ)が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿(かいめん)をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19.30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成(な)し遂(と)げられた」と言い、頭(こうべ)を垂(た)れて息を引き取られた。

 

        「成し遂げられた救い」
 受難節レントと呼ばれる教会のシーズンの中で、今日は第6の日曜日、〈棕櫚(しゅろ)の主日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。この日、主イエスはロバの子に乗って、過越(すぎこし)の祭りでにぎわうエルサレムにお入りになりました。その時、エルサレムの人々は、棕櫚の木の枝を手に持って振りながら、“ホサナ、主よ、お救いください!”と歓声を上げて、主イエスを迎えました。それは、自分たちの王様をお迎えする作法でした。
 けれども、その日から5日後の金曜日に、主イエスは十字架に架けられて殺されるのです。祭司長(さいしちょう)や律法学者という宗教指導者たち、またファリサイ派と呼ばれる主流派の人々から、ユダヤ教の教えと伝統を乱す者、主なる神を冒涜(ぼうとく)する者として裁(さば)かれ、死刑宣告をされ、十字架の上で処刑されたのです。
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 主イエスが十字架に架けられるシーンは、4つの福音書のいずれにも記されています。4つのシーンを合わせると、主イエスが十字架の上で言われた言葉が7つあることが分かります。そのうちの2つが、今日読んだ聖書箇所(かしょ)に遺(のこ)されています。「渇く」(28節)と「成し遂げられた」(30節)、です。
 主イエスは、十字架の上で「渇く」と言われました。十字架に釘で打たれ、血を流し、体力を消耗し、苦しい渇きを感じられたのでしょうか。それもあるかも知れませんが、これは旧約聖書の詩編22編16節の言葉を意味している、とも言われます。
 詩編22編は、主イエスが十字架の上で言われた言葉の一つ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)で始まる詩編です。この言葉を口にされ、また「渇く」と言われた主イエスは、詩編22編を思い描いていたのだと思われます。「こうして、聖書の言葉が実現した」(28節)と書かれているのは、この詩編22編が主イエスの十字架において実現した、という意味でしょう。
 けれども、詩編22編は、神さまへの絶望や苦しみで終わるのではありません。後半は、神さまを信頼して救いを求め、礼拝と賛美で結ばれます。苦難の中で、信頼と希望を歌う詩編です。主イエスはそのことを知っていたでしょうし、福音書の著者も、主イエスの十字架によって、神の救いが実現したと私たちに語りかけているのです。
 もう一つ思い起こされるのは、ヨハネによる福音書7章37節で、主イエスが言われた「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」との御言葉(みことば)です。魂(たましい)の渇き、心の渇きを覚えている人がいる。そのような人を、「わたしのところに来て飲みなさい」と、主イエスご自身が渇くように求めておられるのです。
 コロナ・ウィルス感染が拡大する中で、感染しないために、また感染させないために、3月の間、礼拝を控える方が少なからずおられました。そういう方々をなるべくお訪ねし、また連絡を取りたいと思っていますが、ある方のところに週報や説教プリントを届けに伺いましたら、礼拝に出席したいと涙をこぼさんばかりに言われました。礼拝に飢え渇いておられるのです。神の御言葉に、神の愛に渇いておられるのです。そういう人を、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招く主イエスの言葉が実現する喜びの日が、きっと来ます。
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 もう一つの言葉は、「成し遂げられた」です。これは28節にもあり、短い箇所で2回繰り返されている重要なキーワードです。何が成し遂げられたのでしょう?それは人を救う神さまのご計画です。人が神さまの言葉と心に背いて、自分のエゴに生きている。神さまに愛され、神さまに従って生きる関係を壊(こわ)してしまっている。そのために、あるべき道を失い、様々な問題や悩みを抱えて苦しむことになります。その壊れた関係を、私たちは自分の力で修復することができません。それゆえに、主イエスが、神さまと私たちの断絶した関係を結ぶ“架け橋”となってくださったのです。私たちが自分のせいで滅(ほろ)ぶはずのところを、主イエスが十字架の上で、身代わりとなって滅んでくださいました。そして、“これで神さまとの断絶を修復する救いの工事は成し遂げられた。わたしという橋を渡って、神さまに近づきなさい。神さまの愛の中で、安心し、喜んで生きていきなさい”と招いてくださっているのです。
 主イエスは十字架で処刑された後、三日目に復活します。この復活こそ、壊れた関係が“愛の関係”に復活することを、喜びの朝に復活することを表わしているのです。
 私は、十字架と復活という神さまの救いの出来事から、現在のコロナ・ウィルス感染拡大の状況を思いました。日本でも感染が広がり、その規模が徐々に大きくなっています。不要不急な外出、集まりの自粛(じしゅく)が呼びかけられています。
 礼拝は私たちにとって、主イエスが招いてくださり、心の渇きが癒され、神さまとの関係を見直し、修復する大切な時間です。私たちは、プログラムの省略による時短、換気、マスク着用、座席を離すなど、工夫をしながら礼拝を守ってきました。けれども、このまま感染拡大がとどまらず、私たちが集まって礼拝を続けるならば、クラスター感染の危険が増大します。それによって、私たちの周りの人々を、高齢者や持病のある人たちを、更に感染のリスクに巻き込むことになります。それは、私たちが目指している隣人愛に適(かな)うことではありませんし、神さまの御心に適うとも思われません。私たちは礼拝やすべての集まりを休むことになるでしょう。そのようにして、ほんの少しでも社会に貢献(こうけん)できればと思います。
けれども、角度を変えてみれば、それは教会にとって、私たちにとって“苦難”の時です。共に礼拝し、御言葉を聞き、賛美できないのは辛(つら)いことです。けれども、十字架の苦難から3日目に復活があるように、神さまは必ず、苦しみの時を経て、復活の朝を用意してくださるでしょう。この世界にも、コロナ・ウィルス感染の夜が終わる復活の朝を用意してくださるでしょう。今、その希望を信じて、共に進みたいと願います。

 

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