坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

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2020年4月12日復活祭イースター礼拝説教     「喜びの食事」

ヨハネによる福音書21章1~14節

説教者 山岡創牧師

◆イエス、七人の弟子に現れる
21.1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21.2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21.3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21.4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21.5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21.6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21.7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21.8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21.9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21.10イエスが、「今とった魚を何匹(なんびき)か持って来なさい」と言われた。
21.11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21.12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21.13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21.14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

          「喜びの食事」


 復活の朝を迎えました。けれども、ペトロをはじめ7人の弟子たちの気持は沈み、よどんでいました。主イエスが十字架で処刑されてしまったからです。
7人、奇しくも今朝の礼拝は7人で守る礼拝となりました。新型コロナ・ウィルスの感染が拡大する中、私たちの教会も、通常の礼拝のお休みを決定しました。けれども、教会が礼拝を守ることの大切さを思い、牧師と役員、また一部の役員経験者で礼拝を守り、これをインスタグラムでライブ配信しています。今、この配信を視聴しながら、自宅で礼拝を共にしておられる方々が少なからずおられるでしょう。また、視聴ができなくても祈ってくださる方々がおられるでしょう。離れていても同じ時間に礼拝を共にする仲間がいる。それは、今ここで礼拝を守っている7人にとって大きな支えです。
 けれども、主イエス・キリストの復活を祝うイースターの日に、皆さんと共に集まって礼拝を守ることができない。私たちの気持は複雑です。弟子たちのように沈み、よどんだ思いがないとは言えません。
                   
 主イエスを失った弟子たちの心は沈み、よどんでいました。主イエスは十字架の死から復活して、既に2度、弟子たちに現れておられました。けれども、弟子たちは半信半疑だったのでしょう。信じきれない気持を抱えたまま、彼らはエルサレムを去り、故郷ガリラヤへと帰りました。とは言え、主イエスと共に過ごした日々のように、何かに向かって燃えるような思いがあるわけではなく、放心して、何もすることがなかったでしょう。手持無沙汰(てもちぶさた)で、何かせずにはいられなくて、「わたしは漁に行く」(3節)と、元々漁師だったペトロが言い出し、他の弟子たちも一緒にガリラヤ湖に舟を出した。けれども、集中力もなかったのでしょう、その夜は魚一匹、何もとれませんでした。俺たちはいったい何をしているんだろう?空しい気持で彼らは岸に戻ったに違いありません。
 けれども、岸には一人の人が立っていて、彼らを待っていました。それは、復活した主イエスでした。けれども、「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)といいます。見た目では分からなかったのです。主イエスが復活したことが分からなかったのです。それは言い換えれば、表面的には復活という出来事に気づくことができない、ということです。物事を、目に見えるものによってだけ表面的に見ていたら、私たちは、復活の恵みを見落としてしまうのです。
 弟子たちは、それが主イエスだとは分かりませんでした。けれども、主イエスは、そのことに頓着(とんちゃく)せず、彼らに声をかけられます。「子たちよ、何か食べるものがあるか」(5節)。「子たちよ」と呼びかける主イエスの声には、愛が満ちあふれていたことでしょう。「ありません」(5節)と空(むな)しく答える弟子たちに、主イエスは、もう一度漁をしなさい、舟の右側に網を打て、と言われます。言われるままに、弟子たちは舟を出し、舟の右側に網を打つと、引き上げられないほどの魚がとれました。この出来事に、弟子たちは薄々(うすうす)、“以前にもこんなことがあったぞ。もしかしたら‥‥”と感じたことでしょう。ガリラヤ湖で初めて主イエスと出会った時と同じ光景が繰り返されているからです。
 けれども、以前と同じ出来事が起こったから、弟子たちは復活した主イエスだと気づいたのだとは、私には思えません。別の理由があると思うのです。
 それは、「イエスの愛しておられたあの弟子」(7節)が最初に、あれは「主だ」(7節)、復活した主イエスだ、と気づいたことと関係があります。愛されていたから、あれは「主だ」と分かったのです。つまり、主イエスに愛されているということが、復活に気づく要因(よういん)です。
 とは言え、彼以外の弟子たちが、主イエスに愛されていなかったわけではありません。ただ、彼らは自分が主イエスに愛されているということを忘れていたのでしょう。目に見える主イエスを失った悲しみと空しさのために、主イエスに愛されているという喜(よろこ)びを失いかけていたのでしょう。それを忘れたら、復活に気づくことはできません。
 愛と復活には深い関係があります。ふと、昔、KANという歌手が〈愛は勝つ〉という曲を歌っていたことを思い起こしました。“どんなに困難で、くじけそうでも、信じることさ。必ず最後に愛は勝つ”。聖書も、そう語っています。特に、コリントの信徒への手紙(一)13章〈愛の賛歌〉が、愛の勝利を歌っています。
 目に見える出来事だけに捉(とら)われがちなのが私たちですが、主イエスに愛されていることを信じたら、自分が、自分の人生が、この世の出来事が、全く違って見えるのです。自分の人生の十字架が、復活へと向かっていることが見えてくるのです。
                  
「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)。そう言って、主イエスは弟子たちを迎えました。なんてすてきな呼びかけでしょう。みんな一緒に、喜んで、朝の食事ができる。その光景が目に浮かぶようです。コロナ・ウィルス感染が拡大して、教会で皆さんと一緒に食事をするという当たり前のことができなくなりました。この状況に、当たり前と思っていたことは決して当り前ではなく、恵(めぐ)みなのだということを改めて思います。感染が終息して、また皆さんと、ランチの会や、エリコの会や、愛餐(あいさん)会で、一緒に食事ができるようになる日を待ち望みます。
 そんなことを考えていましたら、主イエスが招いてくださる「朝の食事」とは、ただ食事のことだけを言っているのではなく、日曜日の朝の礼拝のことだ、と気づきました。復活した主イエスは毎週日曜日、私たちを「朝の食事」に、“魂(たましい)の食事”に招いてくださっているのです。私たちの魂の渇きを潤(うるお)し、苦しみ悲しみを癒(いや)し、喜びと平和と希望を与える「朝の食事」、礼拝へと招いてくださっているのです。コロナ・ウィルス感染が終息し、主イエスが招いてくださる礼拝に、私たちみんなが共に集まり、喜んで賛美できる日が再び来ることを今、祈り求めていきましょう。

 

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