坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年4月19日 主日礼拝説教         「真理を証しする王」

ヨハネによる福音書18章28~38節

説教者 山岡創牧師

 

◆ピラトから尋問(じんもん)される
18.28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸(そうとくかんてい)に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越(すぎこし)の食事をするためである。
18.29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴(うった)えるのか」と言った。
18.30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18.31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法(りっぽう)に従って裁(さば)け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18.32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18.33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18.34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18.35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18.36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18.37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証(あか)しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18.38 ピラトは言った。「真理とは何か。」

 

        「真理を証しする王」
  

  そこに行けば どんな夢も かなうというよ
  誰もみな行きたがるが 遥かな世界
  その国の名はガンダーラ どこかにあるユートピア
  どうしたら行けるのだろう 教えてほしい
  In Gandhara, Gandhara. They say it was in India.
     Gandhara, Gandhara 愛の国ガンダーラ(ゴダイゴ作詞作曲、「ガンダーラ」)

 若い人たちは、この歌謡曲を知っているでしょうか? オンタイムで聴いたことがあるのは、私と同世代から上の年齢の方々だと思います。これは、ゴダイゴという音楽グループが、1978年に発表した代表曲です。歌詞の意味を少し考えると、インド仏教の慈悲(じひ)の思想がバックにあると思われます。
“愛の国ガンダーラ”。私は、今日の聖書箇所(かしょ)で、「わたしの国は、この世には属していない」(36節)という主イエスの言葉から、ふと、このガンダーラという歌謡曲を連想しました。主イエスの国は、いったい何と呼べばいいのだろう?、キングダム?、バシレイア?、ゴダイゴの曲に乗せて替え唄ができそうだなぁ‥‥そんなことも考えました。主イエスの国こそ、まさに“愛の国”だと思うのです。
                                                               
 主イエスは、ご自分に敵対する祭司長、律法学者、ファリサイ派などのユダヤ人に捕らえられ、ユダヤ総督であるピラトの官邸に連れて来られました。そこで、ピラトから「いったい何をしたのか」(35節)と尋問(じんもん)された時、「わたしの国は、この世には属していない」とお答えになったのです。
 当時ユダヤ人は、ローマ帝国に支配されて、国がありませんでした。ローマ本国からユダヤ人を治(おさ)める総督が派遣(はけん)され、総督が、税を集める権限と、人を死刑にする権限を持っていました。ユダヤ人の指導者や主流派の人々は、何としても主イエスに対する民衆の人気、信頼をおとしめようとして、主イエスを犯罪者として処刑しようとしました。けれども、自分たちには死刑の権限がありません。だから、ローマ帝国に反乱を起こそうとしている王として訴え、ピラトに裁かせ、十字架刑にしようとしたのです。
 最初、ピラトは面倒臭(めんどうくさ)がって、自分たちの律法で裁(さば)けばいいじゃないか、と退(しりぞ)けようとしました。けれども、彼らがしつこく食い下がるので、尋問をし始めたのです。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)。
 主イエスは、自分が「王」であることを否定はしていません。けれども、自分の王国はこの世のものではない、と答えました。この世に形あるものとして存在していない国、自分はその国の王だと主イエスは自負しておられるのです。
 形なき国とは、どんな国でしょうか?それは“真理の国”だと言っても良いでしょう。主イエスは更に続けて、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)と言われました。主イエスの国は“真理の国”、そして主イエスは“真理の王”、“真理を証しする王”です。
 私たちは普段、「真理」という言葉を口にすることは、まずありません。だから、「真理」なんて言われると、“はて、真理って何だろう?”と考え込んでしまうでしょう。でも、私たちクリスチャンは、意識はしていなくとも、「真理」によって生きているのです。
 主イエスは、「真理について証しをするために‥‥この世に来た」と言われましたが、それは言い換えれば、“神の愛”を伝えるために来たということです。そして、あなたがたは皆、一人ひとり、神さまに愛されているのだよ、ということを伝え、身をもって証しされたのです。特に、お前たちは神に愛されていないと蔑(さげす)まれ、自分でもそう思い込んでしまっている人々のところに行って、あなたも神の子だ、愛されていると教え、病を癒(いや)し、食事を共にされたのです。ご自分に反対し、敵対(てきたい)する人々の過ちを引き受け、十字架で死ぬまで、神の愛を証しされたのです。ヨハネによる福音書の御言葉(みことば)で言うならば、「神は、その独(ひと)り子をお与(あた)えになったほどに、世を愛された」(3章16節)という真理を命がけで証しされたのです。
ですから、「真理」とは“神の愛”です。私たち一人ひとりが神さまに愛されて生きている、ということです。その真理を証しする方として、主イエスは“愛の王”です。そして、その国は“愛の国”です。信じたら、行くことができる“国”です。
                  
 主イエスは、ピラトの尋問の間に2度、あなたは自分の意思でそう言うのか?と問い返しています。つまり、信じるか?、信じて告白するか?という問いかけです。人から言われてとか、客観的な事実だから、ということではなく、あなたはわたしを“愛の王”と信じるか?、目に見えない愛の国を信じるか?と私たちに問(と)うておられるのです。
 私たちの教会に、Mさんという信徒がおられました。2009年に91歳で召された方です。Mさんは、60歳を過ぎて求道(きゅうどう)を始め、洗礼を受け、自分は最後に「ぶどう園」(マタイ20章1~16節)に来た者だからと言って、熱心に教会生活をなさいました。そのMさんがしばしば、祈りでも、証しでも“自分の心の中心に、主イエスを王としてお迎(むか)えする”ということを言われました。自己中心のエゴを退けて、主イエスを自分の心の王座にお迎えする。それは主イエスを“愛の王”として迎えるということです。自分の生活を“愛の国”とすることです。こんな自分でも主イエスに愛されている。そう信じているからこそ言える言葉です。主イエスは私の王、そう信じてMさんは人生の晩年(ばんねん)を歩み抜かれました。
 “あなたは私を愛する王”。私たちも、自分の意思で主イエスを信じて、愛されていることを喜び感謝し、愛することを大切に、愛の国に属する者として歩んで行きましょう。

 

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