坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年4月26日 主日礼拝説教       「十字架につけろ ~ 神への越権行為」 

ヨハネによる福音書19章1~16節

説教者 山岡創牧師

 

19.1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭(むち)で打たせた。
19.2 兵士たちは茨(いばら)で冠(かんむり)を編(あ)んでイエスの頭に載(の)せ、紫の服をまとわせ、
19.3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手(ひらて)で打った。
19.4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19.5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19.6 祭司長たちや下役(したやく)たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19.7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法(りっぽう)があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19.8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19.9 再び総督官邸(そうとくかんてい)の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19.10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19.11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19.12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝(こうてい)の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背(そむ)いています。」
19.13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石(しきいし)」という場所で、裁判の席に着かせた。
19.14 それは過越祭(すぎこしのまつり)の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19.15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19.16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 

    「十字架につけろ ~ 神への越権行為」
 今年の2月26日から4月11日まで続いた受難節レントの期間、坂戸いずみ教会は例年のように、茨の冠を礼拝堂正面の十字架に掛けました。それは、今日の聖書箇所(せいしょかしょ)に書かれているように、兵士たちが主イエスをバカにして被らせた茨の冠を思いながら、手作りで作ったものです。既に天に召された二人の教会員、新井壮四郎さんが東松山の藪の中で手に傷を負いながら取って来た茨を、森永こぎくさんが、やはり手にケガをしながら冠の形に編んでくださいました。それは主イエスの侮辱(ぶじょく)と苦しみの象徴です。お二人もきっと、主イエスの苦しみを思いながら茨を取り、編んだことでしょう。
 気づいていた方もあったかと思いますが、実は12日のイースターの時も、先週19日も、茨の冠を掛けたままでした。新型コロナ・ウィルスの感染が広がる中で、礼拝の休止や、そのための相談、連絡に追われてバタバタしている中で、茨の冠に意識が向かず、掛ったままなのに、おかしいと思いませんでした。
 茨の冠。それは主の苦しみの象徴です。けれども、今日の聖書箇所から改めて茨の冠のことを考えてみた時、苦しみの象徴という意味の裏に、大切な意味があるのではないか。冠とは王の象徴です。先週の説教でお話したように、主イエスはこの世にはない愛の国の王であることを意味しているのではないか。そのことに初めて思い至りました。主イエスは、父なる神の「権限」を託された、“愛の権限”を託された王なのです。
                  
 今日の聖書箇所には、ユダヤ人のゴタゴタに関わりたくないローマ総督ピラトと、何としても主イエスの十字架刑をピラトに認めさせたい祭司長たちとのせめぎ合いが続いています。「見よ、この男だ」(5節)。ピラトはそう言って、総督官邸の中から祭司長たちの前に主イエスを引き出します。そこには、紫の衣を着、茨の冠を被らされ、王様の格好をさせられて、道化者のようにバカにされた主イエスが、しかも顔や手に殴られた傷や腫(は)れのある惨(みじ)めな姿で立っていました。“見ろ、こんな男がローマ帝国を転覆(てんぷく)させようとする王であるわけがない!”。ピラトはそう言いたいのです。
 けれども、主イエスを見た祭司長たちや、その下役たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」(6節)と叫んで譲りません。ピラトが繰り返し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」(6節、他)と、ローマの支配を転覆させ、自分がユダヤ人の支配者になろうなどという政治的な野心はない、と言っても聞き入れません。「王と自称する者」を「釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」(12節)と、祭司長たちはピラトを脅しました。もしもローマ皇帝の信任を失ったら、自分は総督の地位を失ってしまう。ピラトは我が身かわいさから、遂に主イエスを裁判にかけ、十字架刑を承認するのです。
 あろうことか、祭司長たちは“とどめ”とばかりに「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(15節)と答えます。唖然(あぜん)とします。あなたたちの王様は神さまお一人でしょう?!神の王国復興を待ち望んでいるんでしょう?!そのあなたたちが、それ言っちゃうの?!いくらピラトを脅し、主イエスを処刑したいからとは言え、ユダヤ教徒であり、しかもその指導者である祭司長たちの節操(せっそう)のない言葉にあきれます。でも、私たちもクリスチャンとして日曜日と平日とで節操のない言葉と行動を取っていないだろうか。以前と今とで、主イエスに対する愛と誠実を失った信仰生活になっていないだろうか。特に、コロナ・ウィルス感染拡大のため礼拝休止という現状の中で、主イエスを王と仰ぐ信仰生活を送るにはどうしたらいいか、ぜひ考えていただきたいのです。
                   
 ところで、ピラトが、釈放と処刑の権限をちらつかせて主イエスを脅すシーンがあります。それに対して主イエスは答えます。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」(11節)。確かに、この世の国のルールとして、政治的な権限は存在します。でも、それは、この世を創造された神さまから与えられた権限でなければ、主イエスにとって、私たちクリスチャンにとって重要ではないのです。人を生かし、人を殺す権限は本来、人が握っているのではありません。人に命を与え、生かし、また命をお召(め)しになる権限は、神さまが持っておられるのです。そのことをわきまえず、人を裁(さば)き、殺そうとすること、たとえ死刑にするのでなくとも、相手の人格を否定し、傷つけ、相手の存在を抹殺(まっさつ)することは、神さまに対する人間の越権(えっけん)行為として重い罪(つみ)だと主イエスは言われます。
 けれども、ここに、神さまの権限を託されたお方がただ一人おられます。それはもちろん、主イエスその人です。人に命を与え、生かし、また命をお召しになる神の権限を託されて、主イエスはこの世においでになりました。言わば主イエスは、神の国の“全権(ぜんけん)大使”、愛の国の全権大使です。
 全権大使というと、私は、歴史で習った小村寿太郎(こむら・じゅたろう)という名前が思い浮かびます。日露戦争の後、日本政府の全権を託されて、ロシアとの間にポーツマス条約を結んだ外務大臣です。旅順や日本海海戦で勝利しながら、ロシア側の強硬な姿勢に、小村寿太郎大臣は、条約をまとめるために講和条件をずいぶん譲(ゆず)ったといいます。
 「十字架につけろ」。ユダヤ人側の強硬な姿勢に、主イエスはずいぶん譲られたのだと思います。いや、神の国の全権大使として、ユダヤ人の勝手な言い分を飲んで、すべてをお譲りになったのではないでしょうか。それは、神の国とこの世の間に講和条約を結ぶため、神と人との間に愛と平和を取り戻すためです。
 なぜそこまで神さまがお譲りになるのか?神は愛だからです。私たちの命を生かし、また命を召(め)す権限の根底にあるものは、力(による支配)ではなく“愛”だからです。
愛の全権を使って、主イエスは私たちのために十字架に架(か)かり、命を捨てて、私たちを生かし、愛し、救(すく)ってくださいました。私たちは、神さまの愛の権限の下に生かされて生きています。まやかしのような人間の権威や権限を恐れず、左右されず、神さまの愛を受け止めて、喜び、祈り、感謝し、謙遜に、人を愛して生きていきましょう。

 

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