坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年5月3日 主日礼拝説教         「あなたの母、あなたの子」

聖書 ヨハネによる福音書19章16~27節
説教者 山岡創牧師

19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
◆十字架につけられる
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

                                       「あなたの母、あなたの子」
 かつてマリアは、律法(りっぽう)の定めのとおり、生まれて間もない主イエスを神さまに献げるために、夫ヨセフと二人で、お宮参りをしたことがありました。その時、神殿にいたシメオンという老人が、いきなり主イエスを抱き上げ、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示(けいじ)の光、あなたの民イスラエルの誉(ほま)れです」(ルカ2章31~32節)と神さまを賛美し、主イエスを祝福しました。二人は驚きました。けれども、驚きはそれだけで終わりません。「この子は‥‥反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣(つるぎ)で心を刺し貫かれます」(34~35節)。シメオンはマリアに、そう告げました。マリアは、何のことか訳が分からなかったでしょう。
 けれども、それから約30年後の今、息子イエスは自分の目の前で処刑されている。祭司長を始めユダヤ人たちから、「十字架につけろ」(ヨハネ19章6節)と憎まれ、まさに「反対を受けるしるし」として十字架に架けられている。その姿を目の前にしている母マリアの心は、剣で刺し貫かれたかのような痛みを感じていたに違いありません。
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 マリアという人は、不思議な出来事を即断(そくだん)せず、「心に納めて思い巡らす」(ルカ2章20節)人でした。かつて主イエスを産んだ時、家畜小屋に羊飼いたちが、天使のお告げでやって来た出来事も、先ほどお話したシメオンの祝福と預言の言葉も、その意味が分からないまま、しかし心に納めていたのです。
 けれども、主イエスの言葉と行動は、次第にマリアの心に納まり切れなくなっていったようです。「あの男は気が変になっている」(マルコ3章21節)と噂されて、家族総出で主イエスを取り押さえようとしたこともありました。話をしようと、大勢の人に囲まれている主イエスのもとに人をやって呼ばせた時、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3章33節)と、あしらわれたこともありました。主イエスが何を考えているのか、マリアには段々分からなくなっていったと思われます。子どものことが分からなくなっていく。子どもが自分から離れていく。それは当然のことではありますが、親として、母として寂しい現実でありましょう。
 とは言え、やはり愛する我が子です。その我が子が、自分の目の前で十字架に架けられて殺されようとしている。それは、心に納めることのできない痛みでした。
 私たちも時に、心に納めることのできない不条理な出来事に襲(おそ)われることがあります。“どうして?!”と叫び続けることしかできなかったり、一時、心が凍(こお)りついたように動かなくなってしまうような辛(つら)い経験をすることがあります。マリアもそうでした。
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 けれども、神さまはそこに、主イエスを通して“生きる道”を指し示してくださいます。御(み)言葉によって生きる道へと導いてくださるのです。主イエスは、母マリアとそのそばにいる愛する弟子とを見て、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(26節)と、それから弟子に、「見なさい。あなたの母です」(27節)と言われました。遺言(ゆいごん)とも言うべき二人への御言葉です。マリアは最初、この言葉の意味がよく分からなかったのではないでしょうか。けれども、この弟子はその言葉を受け止めて、「このときから‥‥イエスの母を自分の家に引き取った」(27節)と言います。
 不思議に思うのは、主イエスには4人の弟がいたということ、つまりマリアには主イエスの他に実の息子が4人もいたのに、なぜ息子たちのだれかがマリアを引き取らずに、この弟子が引き取ったのか、ということです。理由は定かには分かりません。けれども、この弟子は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章4節)と言われた主イエスの教えを思い、まさに主に愛されている弟子として、このような形で主の遺言を受け止め、愛を実践したのではないでしょうか。
 ふと、こんなエピソードを思い起こしました。私がまだ幼かった頃、川越市の我が家には、Aさんという女性とNさんという男性が一緒に生活をしていました。改めて母に聞くと、一年ぐらいだったのではないかということです。Aさんは牧師館の一部屋に、Nさんは教会の2階の和室で生活していたそうです。3歳ぐらいだった私は、Nさんの部屋にチョコチョコ行っては、将棋を教えられ、打っていたそうです。そうだったのか?!そのまま続けていたら、私、プロ棋士(きし)になっていたかも‥‥というのは冗談ですが、幼い私は、二人の“他人”が一緒に生活していることを何とも思いませんでした。しかし、両親にとっては苦労だったに違いありません。でも、その苦労は「あなたの子」「あなたの母」と言われる主イエスの言葉に従う愛の行為だったと思うのです。
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 マリアは、この弟子に引き取られ、一緒に生活する中で、“愛”を感じていったのではないでしょうか。母として、弟子として、主イエスを失った痛みを分かち合い、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ12章15節)愛を味わったのではないでしょうか。そのような愛によって心が温められる中で、「婦人よ、あなたの子です」と言われた主イエスの言葉が心に納まり、ストンッと腹に落ちるようになっていったのでしょう。
 かつて、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と母マリアに言われた主イエスは、続けて、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心(みこころ)を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ」(マルコ3章34~35節)と人々に教えられました。神の御心とは、互いに愛し合うことです。主イエスが愛した弟子と共に生活することを通して、マリアは、「あなたの子です」と言われた主の言葉は、血のつながりを超えて、信仰と愛によって“神の家族”になることだと気づいたことでしょう。
 私たち坂戸いずみ教会も、血はつながっていなくとも、信仰と愛によって結ばれた神の家族です。その交わりによって苦しみや悲しみの中にも、生きる道がきっと見つかる、神さまが備えてくださると私は信じています。今、コロナ・ウィルス感染拡大で、共に集まることができない時だからこそ、互いに愛を込めて祈り合い、共に進みましょう。

 

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