坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年5月10日 主日礼拝説教         「“自分”を生きる勇気」

聖書 ヨハネによる福音書19章31~42節
説教者 山岡創牧師

◆イエスのわき腹を槍で突く
19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日(あんそくび)であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19:33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19:34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35 それを目撃した者が証(あか)ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19:36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕(くだ)かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19:37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
◆墓に葬(ほうむ)られる
19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

                                    「“自分”を生きる勇気」
 主イエスが十字架に架けられたのは金曜日の12時過ぎでした。ユダヤ人の習慣では、夕方から新しい一日が始まります。しかも、金曜日の夕方からは、神の掟に定められた安息日が始まります。安息日は、すべての労働を休み、神さまを礼拝するように定められた日です。しかも、この時の安息日は特別で、ユダヤ人のルーツとも言うべき過越の祭りの初日に当たっていました。だから、祭司長たちは、主イエスを含む3人の足を折り、息の根を止めて、早く十字架から降ろし、始末してしまいたかったのでしょう。けれども、埋葬しようというわけではありません。主イエスは、処刑された罪人たちがまとめて葬られる穴に投げ込まれるだけだったに違いありません。
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 その時、アリマタヤ出身のヨセフという人が、この処刑の責任者であるローマ総督ピラトに、「イエスの遺体を取り降ろしたい」(38節)と願い出ました。そして、主イエスを十字架から取り降ろし、処刑場のそばにある洞穴に遺体を納めました。また、ニコデモという人も、主イエスの遺体に塗るために、「没薬と沈香を混ぜた物」(39節)を持って来たといいます。二人は、ユダヤ人の政治と宗教を司る最高法院の議員でした。主イエスを裁いた祭司長や他の議員たちの手前、取りづらい行動だったでしょう。
 ヨセフは「イエスの弟子」(38節)だったと言います。ニコデモもそうだったでしょう。けれども、「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(38節)といいます。なぜなら、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公(おおやけ)に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(9章22節)からです。会堂とは、ユダヤ人社会の中心です。彼らは安息日ごとに、最寄りの会堂に集まり、礼拝(れいはい)し、交わりを持っていました。だから、会堂から追放されるとは、ユダヤ人社会から村八分にされるということです。それは、生きる場所を失い、ユダヤ人として生きられなくなる、ということでした。
 けれども、ヨセフとニコデモは、十字架で処刑された主イエスを葬りました。それは、自分たちが「イエスの弟子」であることを公にすることでした。二人は、議員としての地位と名誉はおろか、ユダヤ人として生きる人生を捨てる覚悟をしたのです。
 なぜヨセフとニコデモは、今まで隠していたのに、ここで「イエスの弟子」であることを明らかにしたのでしょうか?それは、二人の内側で、“ユダヤ人”である自分よりも、「イエスの弟子」である“自分”の方が、次第に大きくなっていったからではないでしょうか。しかも、自分たちは「イエスの弟子」であることを隠し、偽(いつわ)っているのに、主イエスはご自分が真理と愛を証しする神の国の王(18章37節)であることを偽らず、誤魔化(ごまか)さずに生きている。そのために、祭司長やファリサイ派の人々と対立し、命を狙(ねら)われ、陥(おとしい)れられることになっても、彼らに媚(こ)びず、へつらわず、“神の子”としての“自分”を生き抜かれた。その結果、十字架に架けられることになっても、“自分”を曲げなかった。その生き様に、ヨセフとニコデモは打たれたのではないでしょうか。主イエスの姿に感動し、勇気を出して、自分たちも議員という地位を捨て、ユダヤ人であることを捨てて、「イエスの弟子」である“自分”を生きる決心をしたのではないでしょうか。
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 ところで今、NHKの銀河テレビ小説で〈エール〉というドラマを放映しています。古関裕而(こせきゆうじ)という、1929年にイギリスのチェスター楽譜出版社が主催する作曲コンクールで、日本人としては初めて国際的コンクールに入選し、その後、作曲家の道を歩んだ人物をモデルとしたドラマです。主人公の古山裕一は、福島の老舗(しにせ)呉服屋の跡取りでしたが、音楽と出会い、独学でその才能を開花させていきます。しかし、店の経営が傾き、親戚(しんせき)から融資を受ける代わりに、裕一はその家の養子跡取りになることになり、家族のことを考えて音楽の道をあきらめます。けれども、音楽と決別しようとして、これが最後とイギリスの作曲コンクールに応募したところ、上位入選を果たし、留学に招かれます。
一方、ヒロインの関内音(せきうちおと)は、歌手を目指していましたが、裕一の快挙をニュースで知り、ファン・レターから始まった文通を通して裕一と出会います。裕一は、自分の人生、自分の音楽には音が必要と感じ、音に告白し、結婚の約束をします。ところが、家族に反対され、音楽留学か結婚か、どちらかを選べと迫られます。裕一は苦悩の末に、結婚の約束を破棄(はき)する手紙を音に送ります。そんな時、世界的な不況が起こり、留学はキャンセルとなりました。裕一は、フィアンセと音楽留学の両方を失い、失意のどん底に陥(おちい)ります。そして音楽の道を捨てて、自分の心を殺し、家族のために生きようとします。
 けれども、音はあきらめません。裕一のために、レコード会社の契約を取り付けて、福島の裕一に会いに行きます。そして、投げやりな態度を取る裕一に音は言います。“あなたに救われたからよ。励(はげ)まされたからよ。みんな、あなたに幸せになってもらいたいの。自分の人生を歩んでほしいの”。
 そんな音の熱意に、裕一は再び、家族か音楽か迷い悩んだ末に、家族の反対を押し切り、家を捨てて、音と音楽の道を選びます。それが裕一にとっては、周りに押し付けられた人生ではなく、“自分”を生きることになるのだと感じました。
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 私たちが“自分”を生きるとは、どのように生きることでしょうか?私たちは“何者”でしょうか?「イエスの弟子」“クリスチャン”である“自分”は、自分の中でいったい何番目でしょうか?現代において、クリスチャンとして生きることは簡単なようで、簡単ではありません。周りを恐れ、自分を偽り、人におもねって生きていたり、周りの人への義理やしがらみに囚(とら)われて生きているようなことがあるかも知れません。決心することは困難ではあります。でも、主イエスに助けていただいて、ヨセフのような、ニコデモのような勇気を与えられたいと願います。“自分”を生きることができたら、きっと爽やかです。自由です。そして神の国が心に感じられるでしょう。

 

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