坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年5月17日 主日礼拝説教           「来て、見て、信じた」

2020年5月17日 主日礼拝説教           
聖書 ヨハネによる福音書20章1~10節
説教者 山岡創牧師

◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布(あまぬの)が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆(おお)いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

                                        「来て、見て、信じた」
 週の初めの日、つまり日曜日の早朝、マグダラのマリアから知らせを受けたペトロともう一人の弟子は、主イエスを納(おさ)めた墓へと走りました。そして、洞穴(ほらあな)を利用した墓の中に入ってみると、主イエスの遺体は、そこにありませんでした。この状況を目の当たりにして、私たちならば、どのように考えるでしょうか?
 だれかが主イエスの遺体をこっそり運び出した。そう考えるのが常識的です。マタイによる福音書28章には、主イエスの遺体がなくなった時、墓の入口の番をしていた兵士たちとユダヤ人の祭司長たちは、「弟子たちが夜中にやって来て、‥‥死体を盗んで行った」と口裏を合わせたことが記されています。遺体がなくなったのなら、そう考えるのが、だれしも納得できるからです。
 けれども、「もう一人の弟子」(8節)は、「入って来て、見て、信じた」(8節)のです。墓が空であり、主イエスのご遺体がないのを見て、主イエスが死者の中から復活されたことを信じたのです。
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 ところで、今日の聖書の御(み)言葉を読んで、“あれ!、おかしいなぁ?”と思われた方がいらっしゃると思います。8節と9節の内容が矛盾しているからです。と言うのは、8節では「もう一人の弟子」は「信じた」と書かれています。前後の文脈から考えて、主イエスの復活を信じた、ということです。けれども、9節では「二人はまだ‥」というのですから、ペトロだけでなく、もう一人の弟子も、復活の預言を理解していなかった、つまり主イエスの復活を信じなかった、と受け取れることができます。もう一人の弟子はこの時、主イエスの復活を信じたのでしょうか?信じなかったのでしょうか?
 おそらく8節と9節の間には、タイム・ラグがあるのだと思います。ヨハネによる福音書が編集されて、一つの福音書となる以前に、資料の段階では、今日の話には8節はなかったのだと思います。元々は、ペトロともう一人の弟子が墓に来て、中を見て、でも主イエスが復活したことを信じられずに家に帰って行った、という内容だったのではないでしょうか。その方が内容がすっきりしています。
 けれども、後になって、もう一人の弟子は、「入って来て、見て、信じた」のでしょう。そのことを、福音書記者であるヨハネが、ここに8節として書き加えたのだと思われます。それで、矛盾が生じたのです。
 だったら、もう一人の弟子は、この時は信じられなかったけれど、後になって信じたと書けばよいではないかと思います。それなのに、どうしてヨハネは、矛盾すると分かっているのに、ここに「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」と書き加えたのでしょうか?私が思うに、それは、空っぽの墓の中に入って、つまり主イエスが“いない”場所に入って来て、それでも主イエスが復活したことを信じてほしい、主イエスが生きて働かれることを信じてほしい、という強い願いが、読者への呼びかけが、福音書を描いたヨハネの中にあったからではないでしょうか。
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 お墓以外で、主イエスが“いない”場所とは、どこでしょうか?その場所とは、“教会”ではないでしょうか?教会には主イエスはいません。主イエスを宣べ伝えていながら、目に見える人の姿で、主イエスはいません。まさに教会とは、空のお墓です。
 では、救いを求めて、そこに飛び込んで来た人は、いったい何が見られる、というのでしょうか?そこで見られるのは、主イエスを信じている人々が、共に礼拝を守る姿です。喜び悲しみを分かち合い、慰(なぐさ)め励(はげ)まし合い、互いに祈り合う交わりの姿です。離れていても、訪問したり、手紙や電話、メールやラインで、お互いの安否を尋ね合う姿です。直接、主イエスご自身が見られるわけではありません。
 けれども、入って来た人はやがて、その交わりの中に、間接的に主イエスを“見る”ようになるのではないでしょうか。目には見えないけれど、主イエスがこの人々の中に生きて働いていると感じるようになるのではないでしょうか。すなわち、主イエスはここに、この教会に復活しておられると信じるようになるのではないでしょうか。それが、「入って来て、見て、信じ(る)」ということにほかなりません。
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 今年の4月初めに、私たちと長らく教会生活を共にしてきた野澤幸宏神学生が牧師となって、新潟県の栃尾教会に赴任(ふにん)していきました。彼が坂戸いずみ教会に来たのは高校2年生の時、同じ学校の友人に誘われてのことでした。野澤くん(会えて“くん”と呼びます)は、日本の文化や習慣をこよなく愛する男でした。飲むなら緑茶、食べるなら和菓子、常にマイ箸(はし)を持参し、神社仏閣が大好きでした。友だちに誘われて教会に来た動機も、日本の伝統に反するキリスト教、教会の“粗(あら)探し”をしてやろうと思って来たそうです。ところが、教会に入って来て、見て、自分が想像していたのとは何かが違っていたようです。野澤くんは、その後も教会に来続け、20歳の時のイースターに、イエスを救い主と信じて洗礼(せんれい)を受けました。そして、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、遂に主イエスから召されて献身し、主の復活を宣べ伝える牧師となって、主のように人を愛する牧師を目指して、赴任していきました。それは、主イエスのいない教会に、主イエスを見たからに違いありません。信じる人々の交わりの中に、主イエスが生きて働いていることを、主イエスの愛が通っていることを見たからに違いありません。
 もちろん私たちは聖人君子ではありません。自己中心で、欠けの多い、人を傷つける罪人です。でも、主イエスに“愛された罪人”です。自分の罪を自覚し、でも「もう一人の弟子」のように主に愛されていることを信じているからこそ、私たちは不完全でも、互いに愛し合う教会を目指します。主イエスが見える教会を目指します。

 

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