坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年6月7日 主日礼拝説教       「トマス一人のために」

聖書 ヨハネによる福音書20章24~29節

説教者 山岡創牧師

◆「イエスとトマス」

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘(くぎ)の跡(あと)を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵(かぎ)がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

        「トマス一人のために」
 トマスは「見たから」(29節)信じたのでしょうか?私には、そうは思えないのです。確かにトマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と。そして、自分の言葉どおりにしたから、つまり「見たから」、トマスは信じたのでしょうか?そうではないと思うのです。
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 復活した主イエスが弟子たちのもとに来てくださった時、トマスは「彼らと一緒にいませんでした」(24節)。理由は分かりません。けれども、そのためにトマスは主を見ることができませんでした。トマスが戻って来た時、「わたしたちは主を見た」(25節)と、弟子たちは口々に話したに違いありません。皆、興奮(こうふん)し、その顔は驚きと喜びにあふれている。けれども、そういう空気にトマスは溶け込めなかったでしょう。むしろ、他の弟子たちの興奮(こうふん)と喜びが大きければ大きいほど、彼は疎外感(そがいかん)を感じ、孤独(こどく)を味わったに違いありません。“どうしてイエス様は僕のいない時に来たのだろう”“どうして僕一人だけが会えなかったのだろう”。そんな恨めしさから、トマスは仲間の言葉を素直(すなお)に受け取ることができず、思わず言ってしまった。「わたしは決して信じない」と。
 ところが、主イエスはもう一度来てくださいました。主イエスが現れた時、トマスの心の内は、嬉しさよりも、後ろめたさの方が大きかったと思います。あんなことを言ってしまった自分は、主に顔向けできない。声なんてかけられない。そう思って、皆の後ろの方で小さくなっていたかも知れません。
 ところが、そんなトマスに、主イエスの方から語りかけてくださいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と。その一言で、そこは主イエスとトマスだけの世界になりました。もはや、ペトロも、ヨハネも、他の弟子たちもいない。“トマス”“主よ”と呼び合える二人だけの信頼関係です。
 トマスは、主イエスが自分の気持をすべて分かってくださっていることを知りました。自分の頑なさも不信仰も赦して、受け入れてくださっていることを知りました。つまり、自分はこの方に自分のすべてを愛されていることを知ったのです。トマスは、“自分一人のために”もう一度来てくださった主イエスの愛に心が震え、その愛に“神”を感じたのです。「わたしの主よ、わたしの神よ」(28節)とは、主イエスに“神”を感じた人の、感動の告白にほかなりません。
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 と、ここまでなら、主イエスとトマスの感動の再会、主イエスの愛とトマスの告白という、信仰的ハッピー・エンド・ストーリーなのです。けれども、最後に主イエスの余計な?一言が加わります。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。いや、トマスはあなたの釘跡に指を入れてないよ。脇腹(わきばら)に手を入れてないよ。見てないよ。見たから信じたんじゃないよ。イエス様、何てこと言うの?!ぶち壊しじゃん!それを言うなら、マグダラのマリアも、他の弟子たちも皆、「わたし(たち)は主を見ました」(18、25節)って言ってるじゃん。彼らにも言いなよ。「見たから信じたのか」って。トマスだけに言うの、おかしいじゃん!‥と思うのは私一人だけでしょうか。どうして主イエスは、最後にこう言われたのでしょう。
 きっと、これ、トマスに言っているのではないと思います。トマスとの対話はたぶん28節まで、です。では、だれに向かって言っているのでしょう?それは、60年後に、この福音書を読んでいる読者たちに、です。つまり、主イエスを見ることができない世代の人々に、です。主イエスの言葉を直接聞けず、主イエスの奇跡を直接見ることができず、主イエスの愛を直接感じることのできない人々に向かって主イエスは言っている。正確に言えば、主イエスの口を通して、ヨハネがそのように語りかけているのです。もはや主イエスを直接見ることはできない。それでも、福音書の言葉によって、教会の交わりによって、礼拝と祈りによって、主イエスを信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白してほしい。“私一人のための”神の愛を感じて生きる人となってほしい。そういう願いが、この最後の一言に込められているのです。
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 私たちは、主イエスを見たら、もっと信じられる、と思います。神さまの愛がはっきりと分かる恵みの出来事を見たら、あやふやな信仰(しんこう)ではなく、確かな信仰を持てる、と思います。でも、それって果たして“信仰”でしょうか?
 確かに私たちは、目に見える現実に左右されがちです。もし私の人生に苦しい出来事(できごと)が起こったら‥‥私も苦しむでしょう。悩むでしょう。嘆くでしょう。トマスではありませんが、“どうして?!”と思い、神さまに不満をぶつけるかも知れません。
 そうなったら神さまを信じなくなるのでしょうか?‥‥いや、私はそれでも信じたい。信じることをやめないでいたい。こんな人生だけど、“私一人のための”神さまの深い愛が注がれている。捨てたもんじゃない、と諦(あきら)めないでいたい。だから、目に見えなくても主イエスを信じる。神の愛を信じる。それが自分の意志だからです。
 信仰とは、目に見える現実で決めることではなく、信じようとする自分の意志です。周りの人間や環境に左右されない自分の意志です。イギリスの聖書学者であったフォーサイスという人は、この自分の意志を、次のように言い表しました。
 信仰とは、キリストが幻影(げんえい)ではなくして、神のリアリティ(真実)であるという確信に、われらの魂(たましい)と未来のすべてをゆだねる大冒険である。
(『フォーサイスと現代』6頁、ヨルダン社)
 ヨハネによる福音書は、この勇気ある大冒険に、私たちを招いています。目に見える現実は困難かも知れない。でも、信じて進んだらきっと、“私一人のための”神の愛が見えてくる。その愛が見えたら、私たちはトマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」と、魂の底から叫び声を上げる人に変えられているでしょう。

 

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