坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年6月14日 主日礼拝説教         「わたしを愛しているか」

聖書 ヨハネによる福音書21章15~19節

説教者 山岡創牧師

◆イエスとペトロ
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼(か)いなさい」と言われた。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締(し)めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光(えいこう)を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従(したが)いなさい」と言われた。

 

       「わたしを愛しているか」
 「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」(16節)。いやいや、イエス様、それ聞いちゃうの?と思いませんか。ユダヤ人はどうか分かりませんが、日本人だったら、“わたしのこと、愛している?”って聞かれて、素直(すなお)に“愛してるよ”なんて答えられない。年輩の人ほど、恥ずかしくて口では言えないのが日本人でしょう。
 しかも、ペトロの立場と気持を考えたら、“愛しています”なんて、どの口が言えるの!?って話です。だって、ペトロは、「違う」(18章25節)って言ってしまったからです。「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」(25節)と問い詰(つ)められて、「違う」と、1度ならず3度も言ってしまったのです。
 イエス様が、対立していた祭司長(さいしちょう)たちやファリサイ派の人々に捕まって、真夜中の裁判にかけられた時、ペトロは、どうなることかとついて行った。その時、裁判所の中庭で、“お前もあいつの仲間だろう、弟子の一人だろう?”と言われて、「違う」と言ってしまった。もしかしたら、これ、裁(さば)かれているイエス様の前に、証人喚問(しょうにんかんもん)のような形で呼び出されて、イエス様が見ている前で、「違う」と言った可能性があります。しかも、3度も言ったということは“絶対に違う”と誓(ちか)っているようなものです。ペトロにしてみれば、愛してるどころか、どの面下げて、イエス様に会えるかって話ですよ。
 ところが、そんなペトロに、「わたしを愛しているか」とイエス様、どストレートに聞いちゃうんです。えーっ!イエス様、空気読めないの?ペトロの気持、分からないの?と思いませんか?
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 普通に考えたら、そうですよね。でも、イエス様は敢(あ)えて問(と)うているように私には思えます。それは、何としてもペトロとの信頼関係を取り戻したいから。しかも、これからペトロを、主イエスの羊を飼う者として、つまり愛と赦(ゆる)しを宣べ伝え、人を救い、教会を造(つく)る者として遣(つか)わすに当たって、迷ったままの曖昧(あいまい)な気持ではなく、神の愛と赦しについて確信(かくしん)を持たせたい、という思いがあるからだと思います。
 ペトロにしても、このままイエス様が天に昇っていなくなったら、やっぱり消化不良な気持が残ったと思います。確かに、それを聞かれるのは痛いし、既(すで)にイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と3度も言ってくださっています。“お前たちを愛している。心配するな”と言ってくださっています。でも、ペトロにしてみれば、このままでは別れられない。あの時の自分と向き合わないままでは終われない、という気持だったに違いありません。
 だから、「愛しているか」と聞かれた時に、すかさず答える心の準備ができていたのでしょう。さすがに、3度も聞かれたら、ちょっと悲しくなったと書いてあります。でも、「違う」と3度言ったことによって失われた自信と信頼関係を取り戻すためには、同じく3度、イエス様を愛していると確認する必要があったのだと思います。
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 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)。ペトロは3度、そのように答えました。奥歯にモノの挟(はさ)まったような言い方です。どうして“愛しています”とストレートに言わないの、ペトロらしくない、と思います。でも、これ、ペトロなりの精一杯(せいいっぱい)の返答なのです。「あなたのためなら命を捨てます」(13章37節)と豪語(ごうご)しながら、「違う」と3度も言ってしまった自分には、“愛しています”と言える資格も自信もない。でも、愛していることは嘘(うそ)じゃない。本当だ。そんな気持をイエス様なら分かってくださるに違いない。そう信じて、ペトロは「あなたがご存じです」と答えたのでしょう。
 信仰って、愛と弱さでできている。そう思います。イエス様の愛と赦しを信じている。こんな私を愛してくださるイエス様が好きだ。励(はげ)ましてくれる教会が好きだ。私もイエス様と教会を愛している。本当の気持です。けれども、目の前の出来事(できごと)に動揺(どうよう)してしまう。疑(うたが)ってしまう。思い通りにならない現実に、「信じない」(20章25節)と言ってしまう。「違う」と言ってしまう。そういう弱さを一方に抱(かか)えているのが私たちの信仰です、リアルです。
 主イエスは、そういう私たちの信仰をよくご存じです。決して理想的な信仰を求めはしない。不動の信仰を押し付けようとはしない。愛と弱さを抱えたままでいい。それが“人間”の信仰、生きた信仰だ。その信仰をもって、「わたしの羊を飼いなさい」(17節)と、隣人(りんじん)を愛しなさいと、教会を造りなさい、と送り出してくださるのです。私たちを活かしてくださるのです。
 だから、「あなたがご存じです」という言葉は、自分に自信が持てないゆえの責任放棄(せきにんほうき)ではありません。私の愛も、弱さも、すべて受け止めて生かしてくださる方に“よろしくお願いします”とおゆだねする信頼以外(しんらいいがい)の何ものでもありません。
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 主イエスとの3度のやり取りを経て、ペトロは宣教(せんきょう)へと遣わされて行きます。きっと、「違う」と主を否定した自分も赦され、愛されたのだと、確信を持って、喜びを持って人々に愛と赦しを語ったに違いありません。
 そんなペトロの最期は、ローマでの殉教(じゅんきょう)の死だったと伝えられています。皇帝(こうてい)ネロによって逆(さか)さ十字架に架(か)けられた、と。18~19節の言葉は、そういうペトロの殉教を明らかに知っている人が、主イエスの口を借りて、証ししているのです。殉教によって「神の栄光」(19節)を現わした。格好いい、信仰のヒーロー!‥‥‥でも、当のペトロは天国で頭をかいているかも知れません。いやぁ、おれはその時も逃げようとしたんだよ。でも、逃げる途中でイエス様が現れて、おれを見つめるんだ。それでハッとして、これじゃ前と同じだと思って戻(もど)っただけなんだ。‥‥そんな伝説もあるようです。
 ペトロはきっと、天国から私たちにこう言うでしょう。信仰なんて決して格好(かっこう)いいものじゃないんだ。愛と弱さの塊(かたまり)だ。でも、それでいい。イエス様はすべてをご存じで、私たちを愛してくださる。自分の人生を、自分らしく従(したが)って行きなさい、と。

 

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