坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年6月21日 主日礼拝説教         「あなたはあなた」

聖書 ヨハネによる福音書21章20~25節

説教者 山岡創牧師

◆イエスとその愛する弟子

21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸(むな)もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切(うらぎ)るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従(したが)いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証(あか)しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証(あか)しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収(おさ)めきれないであろう。

 

         「あなたはあなた」
 ペトロは、主イエスをまっすぐに見ていました。「わたしを愛しているか」(15節)と、主イエスから痛い質問をされながら、ためらうことなく、迷うことなく、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)と3度答えたペトロです。これは、主イエスをまっすぐに見ている者でなければ、言えない答えだと思います。
 ところが、それまでまっすぐに主イエスを見つめていたペトロの視線が、主イエスから逸(そ)れました。どうしてでしょう?それは、心が揺(ゆ)らいだからです。主イエスの愛を信頼する心が一瞬、揺らいだからです。
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 直前の箇所(かしょ)で、主イエスは3度、ペトロと同じ問答(もんどう)をした後で、最後にこう言われました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。これは、ペトロがやがてどのような死に方をするかを預言(よげん)する言葉でした。伝説では、ペトロはローマで逆さ十字架に架(か)けられ、殉教(じゅんきょう)したと伝えられています。殉教の死によって、「神の栄光」(19節)を現わすことになるのです。もちろん、この時点では、ペトロは自分の将来を知る由(よし)もありません。
 けれども、この言葉、ペトロにはちょっと重かったようです。「わたしを愛しているか」「はい、主よ」と3度答えて、「わたしの羊を飼(か)いなさい」(17節)と、伝道と教会の将来を託(たく)されて、よっしゃっ、行くぞ!とペトロも気を良くしていたでしょう。ところが、その直後に、ちょっと待て、お前の将来の運命はこうだぞ、と言われて、張り切っていた気持の腰を折られてしまった。えーっ、うそっ!、俺(おれ)、思うままに伝道できないの?イエス様の羊のお世話、できないの?行きたくないところに無理に連れて行かれるの?もしかして嫌な死に方しなきゃならないの?、うーん‥‥‥。「わたしに従いなさい」(19節)と言われても、ペトロには、素直(すなお)に、まっすぐに従えない言葉だったのではないでしょうか。どうして俺の運命、そんなに重くて大変なんだろう?もしかして俺だけ?他の弟子仲間はどうなんだ?他の奴(やつ)らは行きたいところに行けるのか?‥‥そんなふうにペトロは、他の弟子たちの行く道が気になってしまった。それが、イエス様から目を逸らし、後ろを振り向いた理由だと思います。
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 後ろを振り向くと、そこに「イエスの愛しておられた弟子」(20節)がいました。その愛されっぷりは、「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸(むな)もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切(うらぎ)るのはだれですか』と言った人である」(20節)という言葉から、よく分かります。最後の晩餐(ばんさん)の席で主イエスは、この中に裏切る者がいる、と予告されました。弟子たちは皆、えっ!?と驚き、凍(こお)りつき、もしかしてあいつが!?と周(まわ)りを疑い、まさか自分が疑われているのでは‥‥と動揺(どうよう)したでしょう。そういう空気の中で、この弟子だけは、イエス様の胸に寄りかかって、「だれですか」って聞けちゃうんですから、微塵(みじん)も自分が疑われているとは思っていない、どれだけ愛されていることに自信を持っているのか、って話ですよ。
 そんなふうですから、ペトロを始め弟子たちは、あいつはイエス様から特別に愛されている、ひいきされている、と思っていたかも知れません。そんな嫉妬心(しっとしん)から、ペトロは、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と聞いてしまったのでしょう。
 けれども、主イエスはこの弟子を本当にひいきし、特別に愛していたのでしょうか?私にはそうは思えません。20章で、主イエスはトマス一人のために現れて、心に沁みる言葉をかけてくださり、信じない!と頑(かたく)なに固(かた)まったトマスの心を、その愛で溶(と)かしてくださいました。21章の直前の箇所では、ペトロ一人を見つめて「愛しているか」と問(と)いかけ、弟子であることを否定したペトロに立ち直るチャンスを与え、教会を任(まか)せた!と信任してくださいました。それを考えたら、あの弟子だけでなく、トマスも、ペトロも、特別に愛されているのです。一人ひとりが“大切な弟子”として、“掛(か)け替(が)えのない一人”として愛されているのです。そうであるのに、だれかがひいきされ、自分は愛されていないと思うとしたら、それは他人をうらやむ嫉妬心以外の何ものでもありません。
 主イエスは、「この人は‥」と問いかけるペトロに、「‥あなたに何の関係があるか」(22節)と言われました。厳(きび)しい言葉です。でも、たとえこの弟子の人生が良いものに見えたとしても、それをペトロが生きられるわけではありません。そして、ペトロの人生は、ペトロ以外には生きられないのです。一人ひとり違う人生、神さまによってそこに置かれ、与えられた人生は自分しか引き受けられない。言わば“特別な”、スペシャルな人生です。自分の人生、思うように行かず、愚痴(ぐち)をこぼし、人と比べ、なぜ?と訴(うった)えたくなることもあるでしょう。でも、私はあなたと共にいる。私の愛を注(そそ)いでいる。だから、私の愛を信じて、人と比(くら)べず、自分を好きになって、自分の人生を大切に、特別に生きていくんだよ。「あなたはわたしに従いなさい」(22節)という一言には、主イエスのそんな思いが込(こ)められているのではないでしょうか。
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  トマトがねえ トマトのままでいれば ほんものなんだよ
  トマトをメロンに みせようとするから にせものになるんだよ
  みんなそれぞれに ほんものなのに 骨を折って にせものになりたがる
 相田みつをさんの〈みんなほんもの〉という詩です(ダイヤモンド社、『みんなほんもの』より)。「この人はどうなるのでしょうか」と要(い)らぬ骨は折らず、わたしはわたし、と“ほんもの”の誇(ほこ)りを持って生きていきたいものです。それが、「あなたはわたしに従いなさい」と言われる主イエスの言葉に応(こた)える生き方です。

 

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