坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年7月12日 主日礼拝説教       「信じて待つ」

聖書 使徒言行録1章6~11節
説教者 山岡創牧師

◆イエス、天に上げられる
1:6 さて、使徒(しと)たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊(せいれい)が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

                              「信じて待つ」
 今日の聖書箇所では、使徒たちに二つの約束が与えられています。一つは、主イエスが8節で言われた、聖霊が与えられる、という約束です。そしてもう一つは、白い服を着た二人の人(おそらく天使)が11節で言った、主イエスがもう一度おいでになる、という約束です。主イエスがもう一度おいでになることは、キリスト教の専門用語で“再臨(さいりん)”と言います。
この二つの約束によって、ここから始まる使徒たちの信仰生活、また使徒たちの語る福音(ふくいん)を信じたクリスチャンの信仰生活の性格は決まりました。それは、聖霊と主イエスを待ち望む生活です。このことから今日の題を“信じて待つ”としました。
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 “待つ”ということは“楽しみ”という面があります。例えば、赤ちゃんの出産予定日を待ったり、チケットを買ってコンサートの日を待ったり、旅行の日やデートの日を待つことは、その日までワクワクしながら楽しみに待つことができます。苦しいことや大変なことがあっても、それを希望にがんばろう、と思ったりします。それは、聖霊と主イエスがおいでになる日を待つ信仰生活も同じでした。期待と希望は大きかったのです。
けれども、ちょっと厄介(やっかい)なことがありました。それは、その日がいつなのか分からない、ということです。主イエスが「‥‥時や時期はあなたがたの知るところではない」(7節)と言われたとおりです。いつになるか分からない日を待つというのはしんどいですね。だから、楽しみと並んで“忍耐”が信仰生活の性格となりました。
 幸い、聖霊は早くやって来ました。使徒たちが聖霊をいただいた日を記念して、ペンテコステと言いますが、これは主イエスが復活してから50日目の出来事でした。1章3節に「イエスは‥‥40日に渡って彼らに現れ」とありますから、主イエスが天に昇られた40日目から差し引き10日目に、一つ目の約束は実現されたことになります。
 けれども、2つ目の約束はなかなか実現しませんでした。主イエスの再臨が文字通り実現しないことに痺(しび)れを切らし、信仰を捨て、教会を離れるクリスチャンも少なからず現われました。キリスト教2千年の歩みの中で、主イエスは既においでになったのか?神の国を実現されたのか?それは捉(とら)え方によって変わると思いますが、私たちの信仰生活には今もなお“信じて待つ”という性格が残っていますし、大切だとさえ思います。
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 さて、現代のクリスチャンである私たちにとって、聖霊が来る、主イエスが来るとは、どのように実現するのでしょうか?一つ思い浮かぶ物語があります。トルストイの描いた『靴屋のマルチン』です。妻と子どもを失い、打ちひしがれていたマルチンは、聖書を読むようになり、ある晩、“明日、あなたのところに行くよ”と言うイエス様の言葉を聞きます。翌朝、マルチンはイエス様を迎える準備を整え、仕事をしながらイエス様を待ちます。そして、窓から通りをのぞいては、雪かきをしていた老人にお茶を御馳走(ごちそう)し、行きずりの若い母親と赤ちゃんを助け、りんご泥棒の少年と売り手のおばあさんを仲直りさせたりします。そんなふうに1日が過ぎて、夜、マルチンはいつものように聖書を読みながら、イエス様はおいでにならなかったなぁ、とため息をつきます。すると、“マルチン、あれはわたしだよ”というイエス様の声が聞こえ、老人や母親と赤ちゃん、少年と老婆の姿が目に映ります。その時、読んでいた聖書は、“最も小さい人にしたのは、わたしにしてくれたことだ”というマタイ福音書25章の主イエスの言葉でした。マルチンは、そういう形でイエス様が自分のところに来てくださったのだと悟り、感謝するのです。これは、身近な人の姿で、主イエスはあなたのところにおいでなっていますよ、人を愛することで主を愛しなさい、との語りかけです。
 もう一つ、この物語から気づかされることは、聖書の御(み)言葉を悟(さと)る時こそ、聖霊がおいでになっている時だ、ということです。私たちは、聖書を読んでもその意味が分からない、ピンッと来ないということが少なからずあると思います。神の愛だ、聖霊の恵みだ、なんだかんだと言われても、心にスーッと通らず、信じることに意味はあるのかと疑問を感じたりします。けれども、信仰生活に早合点は禁物です。待つことに焦(あせ)りは大敵です。信仰を真剣に求めていると、御言葉がストンと腹に落ちる時があります。心にジーンと沁(し)みることがあります。あぁ、この御言葉はこういう意味だったのだ、こういう恵みを語っていたのだと悟り、感動します。その時、聖霊はあなたのところに来ている、主イエスがあなたの心においでになっているのではないでしょうか。
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 そのように御言葉の恵みに気づかせていただきながら、私たちは、イエスを主と仰ぐ、神さまを主と仰ぐクリスチャンへと変えられ、成長していきます。私たちは、自分の人生、自分が主人だと思って生きています。使徒たちもそうでした。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。おいおい、まだそんなこと言ってるの?!イエス様が話されたことは、民族復興でも、この世の栄誉でもないんだよ、と言いたくなります。自分を主人として考えているのです。
 けれども、主イエスは、そのように使徒たちをたしなめませんでした。いつだか分からないよ、と言いながら、「聖霊が降ったら‥‥わたしの証人となる」(8節)と神のご計画を伝えました。そして、そのご計画の通りになって、使徒たちは主イエスの恵みを宣べ伝える者へと変えられ、用いられました。つまり、彼らの人生において、彼らの思惑通りではなく、神さまのご計画、神さまの思惑通りになったのです。そのことによって使徒たちは、人生は自分が主人ではなく、神さまが主であるということを悟っていったでしょう。その時まさに、聖霊は彼らのもとに来て悟らせた、と言ってよいでしょう。見方を変えれば、主イエスは、言葉で言わずに、使徒たちがそのように変えられるのを待っていてくださったのです。
 私たちもきっと、そのように変えられ、成長していきます。“自分の知恵だ、力だ”と思い上がる生き方から、“神さま、よろしくお願いします”とおゆだねする思いへと変えられていきます。その時を楽しみに待ちながら、信仰生活を続けていきましょう。

 

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