坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年8月2日 主日礼拝説教          「主の名を呼び求める者は」

使徒言行録2章14~21節

説教者 山岡創牧師

 

◇ペトロの説教
2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾(かたむ)けてください。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔(よ)っているのではありません。
2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通(とお)して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻(まぼろし)を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕(しもべ)やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注(そそ)ぐ。すると、彼らは預言(よげん)する。
2:19 上では、天に不思議な業(わざ)を、下では、地に徴(しるし)を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 

       「主の名を呼び求める者は」
 酒に酔っているのだ”。五旬祭の日に、使徒たちを始め、共に祈っていた弟子たちは聖霊に満たされて、母国語(ぼこくご)ではなく「ほかの国々の言葉で」(4節)、神の恵(めぐ)みを語り始めました。それを聞いたある人が、“あいつら、朝から酔っぱらっている”とあざけったのです。
 そう思われても、おかしくはありません。確かに不可解な、アンビリーバブルな現象ではあります。けれども、物音(ものおと)を聞いて、そこに集まって来た人々の多くは、そこで語られている自分の故郷(ふるさと)の言葉を認識(にんしき)したのです。同時に、何十ヶ国語も話されていたら、それだけで物すごい騒音(そうおん)だったことでしょう。けれども、よーく聞いてみると、何をしゃべっているのか分(わ)からないその騒音の中に、自分の故郷の言葉が1つだけ混じっている。人々は自分の故郷の言葉を聞き分けたのです。もしもそういう状況で日本語が混じっていることに気づいたら、私たちも集中してその声を聞き分けようとするでしょう。そこにいた人々も相当(そうとう)集中して、自分の故郷の言葉を聞き分けたに違いない。そしてジーッと耳を傾(かたむ)けていると、故郷の言葉で語られていたのは、「神の偉大(いだい)な業」(11節)、つまり神の恵みでした。
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 ところが、何十ヶ国語もが同時に語られている騒音(そうおん)がピタッと止みました。人々がハッとしたその瞬間、12人の使徒(しと)たちが立ち上がります。そして、ペトロが代表して話し始めます。その言葉は、国内のユダヤ人にも、祭りのためにやって来た海外のユダヤ人にも通じるヘブライ語だったと思われます。
 ペトロは語ります。「この人たちは‥‥酒に酔っているのではありません」(15節)。そう前置きして、ペトロは、ユダヤ人なら子どもの時からそらんじている旧約聖書のヨエル書3章にある預言を取り上げます。
「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(17節)。
 このようにヨエル書に預言されていた神さまのご計画が今、実現したのだ。だから、ここにいる人々は神の霊に、聖霊に満たされて、神の恵みを語っている。だから、私たちは、酒に酔っているのではなく、言わば“聖霊(せいれい)”に酔っているのだ。ペトロがまず伝えたかったのは、この点でした。
 余談(よだん)ですが、“霊”のことを英語でスピリット(spirit)と言います。ところが、スピリットには“強いお酒”という意味があります。おもしろいなぁ、と思います。霊も酒も人を酔(よ)わせるもの、そういう考えがあって、霊と酒は同じスピリットという言葉にまとめられたのかも知れません。
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 ところで、ヨエル書の預言の中に、「終わりの時」とありました。使徒たちの宣教(せんきょう)によって始まる初代教会は、「終わりの時」というものを、とても意識していました。イエス様の十字架と復活を境にして、終わりの時を目指す時代が始まった。イエス様はもう一度、天からおいでになってこの世を終わらせ、新しい世を、神の国をお始めになる。使徒たち、初代教会のクリスチャンたちはそのように信じました。しかも、すぐにも主イエスがやって来て、終わりの時を実現されると信じたのです。
 けれども、当時のクリスチャンたちが想像していたような主イエスの再臨(さいりん)と終わりの時は起こりませんでした。しかし、キリスト教はその理解を変えながら、ローマ帝国全土に広まり、ヨーロッパに広まり、全世界に広まって、2千年後の今日に至っています。
 「終わりの時」とは何でしょうか?それは、21節の御言葉(みことば)を借りて言えば、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」時だと言うことができます。私は、このことから、ふと主イエスと一緒に十字架刑にされた犯罪人のことを思い起こしました。
 主イエスが十字架に架けられた時、二人の犯罪人も一緒に十字架に架けられました。一人は主イエスをののしり、救い主なら俺を救え!とわめきます。けれども、もう一人がそれをたしなめます。彼は自分の罪を認めて、主イエスにこう語りかけます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。一緒に天国に連れて行ってくださいとは言わない。言えない。彼は自分がそんなことを頼(たの)めるような資格も善(よ)い行(おこな)いも自分にはないことを知っているのです。だから、せめて天国で“あんな男がいたなぁ”と思い出してほしい、忘れないでほしい、と願ったのです。その時、彼には聖霊が注がれていた。呼び求めていた。そう考えても良いのではないでしょうか。
 ところが、彼が思いもしなかった約束が、主イエスの口から告げられます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。主イエスは彼に、あなたもわたしと一緒に天国に入れる、と約束してくださったのです。(ルカ福音書23章)彼にとっては人生終わりの時、どんなに深い慰(なぐさ)めと希望の言葉だったでしょうか。
 彼は、主の名を呼び求めたのだと思うのです。何の功績(こうせき)もない。行いもない。権利も資格もない。善い人間でも、できる人間でもない罪深い者。でも、そういう人が、自分の罪を悔(く)い改(あらた)め、主イエスの名を呼び、救(すく)いを求めたのです。そして、その呼び求めに応(こた)えて、主イエスは彼を、恵みによって救ってくださいました。それは、何としても私たちを救おうとする主イエスの“愛”、神の“愛”にほかなりません。
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 人は自分の力で生きて、自分の力で救われるのではなく、神の愛によって生かされ、上の愛によって救われる。それは私たちにとって新しい人生観であり、価値観であり、生き方です。そういう信仰を求め、そういう生き方に人生をシフト・チェンジする時、私たちにも聖霊が注がれていると言うことができるのではないでしょうか。

 それは、“聖霊に酔っている”と言えるような生き方です。周りの人が見れば、不思議(ふしぎ)に見えるかも知れない。けれども、私たちは理性が飛んでいるのではなく、新しい価値と生き方によって生きている。神さまに愛されて、愛によって、愛を大切に生きている。つたない信仰、たどたどしい歩みかも知れませんが、そこには喜びがあります。感謝があります。慰めが、平安が、勇気が、希望があります。

 

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