坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年8月9日 主日礼拝説教          「十字架と復活と私」

使徒言行録2章22~32節

説教者 山岡創牧師

 

2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通(とお)してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業(わざ)と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既(すで)に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定(さだ)めになった計画により、あらかじめご存(ぞん)じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法(りっぽう)を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺(どうよう)しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府(よみ)に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽(く)ち果(は)てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至(いた)る道をわたしに示し、/御前(みまえ)にいるわたしを喜(よろ)びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬(ほうむ)られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓(ちか)ってくださったことを知っていました。
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

 

        「十字架と復活と私」
 イエス・キリストの十字架と復活。五旬祭(ごじゅんさい)ペンテコステの日に、集まって来たイスラエルの人々の前で、ペトロは福音(ふくいん)を語りました。その話の中心が十字架と復活です。そして、イエス・キリストの十字架と復活こそ、キリスト教信仰の柱であり、私たちの信仰の土台だということができます。
 けれども、それを知っていても、また十字架と復活の聖書的な意味を理解していても、教養や知識にはなっても、“生きる力”にはなりません。大切なのは、十字架と復活と“私”です。十字架と復活が、“私の人生”とどう関(かか)わっているか、を捉えることです。
 教会に来るようになって、求道生活を始めた方が、割(わり)とよく口にされる引っかかりが、イエス・キリストがどうして神なのか?という疑問です。“私は神さまという存在を信じています。神さまのお陰(かげ)で、こうして生きているということも納得(なっとく)しています。でも、その神さまがイエス・キリストだと言われると、ピンッと来ません。どうしてイエス・キリストを、私の神と信じなければならないのでしょうか?イエス・キリストと私と、いったいどんな関わりがあるのでしょうか?”だいたい、こんな引(ひ)っ掛(か)かりです。
 けれども、求道中(きゅうどうちゅう)の人だけではなく、洗礼(せんれい)を受けて3年、5年、10年、20年と信仰生活を続けている人の中にも、自分とイエス・キリストとの関わりが、何となく曖昧(あいまい)で、よく分かっていないという方もおられるのではないでしょうか?
でも、決して恥(は)じる必要はありません。私たちは食事をします。でも、その食べ物はすぐに栄養が吸収されて消化されるわけではありません。それなりの時間をかけて消化、吸収がなされます。よく噛(か)まないで、鵜呑(うの)み、丸呑(まるの)みはよくありません。
信仰もそうです。イエス様の恵みを何もかも初めからよく分かっていて洗礼を受けたという人は、たぶんだれもいません。でも、イエス様という愛と恵みを自分の中に受け入れたのは確かでしょう。よく咀嚼(そしゃく)してください。今、イエス様の愛と恵みを消化し、吸収している最中なのです。牧師だって、そうです。決して何もかも分かって語(かた)っているのではありません。私も消化、吸収中です。それが、私たちの信仰生活です。噛めば噛むほど味が出るスルメのようなものだと思って、最後まで噛み続けてください。
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 使徒たちだって噛み続けているのです。主イエスの恵みと愛を消化、吸収し続けているのです。この時点で、すべて分かってペトロが語っていたとは思えません。
彼らは、弟子として召(め)された時から、主イエスに関(かか)わりました。でも、主イエスの教(おし)えとその行為の意味がほとんど分かっていなかった。いつも“自分”が中心だった。
 そんな彼らが、十字架の出来事に見舞われます。主イエスが捕(と)らえられ、十字架で処刑された時、彼らは逃げ去(さ)り、“知らない”と否定します。その行動は、彼らの心にぬぐえない罪の烙印(らくいん)を押し、彼らは罪悪感と無力感と絶望感にさいなまれるのです。
 しかし、主イエスは復活して弟子たちのところに来てくださいました。弟子たちに、「平和があるように」を宣言し、罪を赦し、聖霊(せいれい)による力を約束し、立ち直る希望を示してくださいました。それによって彼らは回復し、立ち上がることができたのです。
 けれども、現代人である私たちはどうでしょう?私たちは2千年前の十字架と復活の出来事に直接関わってはいません。主イエスを十字架に架けたわけではなく、逃げたわけでもない。また、復活した主イエスと出会って、赦(ゆる)されたわけでも、喜びや希望を与えられたわけでもない。そのイエスを、どうして“私”の神、“私”の救い主と信じることができるだろうか?引っ掛かりはそこだと思います。
 でも、例えば若者たちが(限らず)、J‐POPの曲に感動し、その歌詞に慰(なぐ)められ、勇気づけられ、自分の心の拠(よ)り所にすることがあるじゃないですか。信仰もある意味、同じだと思います。主イエスの言葉、聖書の御言葉(みことば)とその内容に感動し、慰められ、勇気づけられ、希望と平安を与えられる。自分の人生の拠り所にする。それがつまり、信仰です。ただ、聖書は一発(いっぱつ)では分かりづらいところが残念ですけれど。
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 一昨日、5カ月ぶりに、あきる野市の子育て支援窓口の職員研修に伺い、聖書の学びをしました。マタイ福音書20章にある〈ぶどう園の労働者のたとえ〉を話してほしいと頼まれ、お話しました。夕方5時から働いた人も、夜明けから働いた人も、報酬(ほうしゅう)として同じ1デナリオンをもらうという話です。この世の労働と考えたら納得がいかないけど、そうではなくて、神さまが人をどのように見て、どのように評価しているかという神さま目線(めせん)の価値観、人生観の話なのだと前置きしました。「だれも雇ってくれないのです」、“だれも私を見てくれないのです、だれも認めてくれないのです”。そんなふうに、自信を失い、自分の値打(ねう)ちを見失ってしまった人が、その労働、能力、結果によって評価されるのではなく、神さまの愛によって、“存在そのもの”に大きな価値がある、愛される理由があることを発見し、自分の価値と生きる喜びを取り戻す。そんな話です。子育て支援窓口にも、自分の子育てに自信が持てず、自分の価値を見失ったお母さんが少なからずやって来ます。その力になってください、とお話しました。
主イエスの十字架と復活の意味とは、自分の価値を見失った者が本来の価値を発見し、喜びと自信を回復することの象徴(しょうちょう)だと私は思います。弟子たちが主イエスを見捨て、否定して、罪悪感と自己嫌悪(じこけんお)によって自分の価値を見失ったように、私たちも失敗という十字架や、何もできないという無力感の十字架、人を深く傷つけたという十字架、重い病気を負ったという十字架、愛する人を失った悲しみの十字架‥‥そんな様々な十字架によって、私たちも自信を喪失(そうしつ)し、自分の価値、生きる喜びを見失うのです。
けれども、その時、主イエスの十字架は、私たちに語りかけてきます。“あなたの価値って、本当はどれぐらいだと思う?、それは私の命と同じ重さなんだよ”。主イエスは私たちを救い、立ち直らせてくださるために、身代わりに十字架にお架かりになりました。その神の子イエス・キリストの命の価値、父なる神にこの上なく愛されているという大きさが、私たちの命の本来の価値なのです。
そして、その命の本来の価値を伝えるために、主イエスは復活して来てくださいます。いや、私たちが聖書の御言葉を通して、自分の命の価値を取り戻し、喜びと平安に生きられるように回復することそのものが、“私(たち)の復活”だと言うことができます。
 その時、私たちの内側に、主イエス・キリストとの“魂(たましい)の関わり”ができます。十字架と復活は、理屈ではなく、私自身の魂(かたまり)の感動体験となります。拠り所となります。

 

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