坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年8月16日 主日礼拝説教          「悔い改めと洗礼」

使徒言行録2章33~42節

説教者 山岡創牧師

 

2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊(せいれい)を御父(おんちち)から受けて注(そそ)いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞(みき)きしているのです。
2:34 ダビデは天に昇(のぼ)りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告(つ)げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台(あしだい)とするときまで。」』
2:36 だから、イスラエルの全家(ぜんか)は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔(く)い改(あらた)めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦(ゆる)していただきなさい。そうすれば、賜物(たまもの)として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招(まね)いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証(あか)しをし、「邪悪(じゃあく)なこの時代から救われなさい」と勧(すす)めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互(そうご)の交(まじ)わり、パンを裂(さ)くこと、祈ることに熱心であった。

 

        「悔い改めと洗礼」
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)。イスラエルの人々は、ペトロの語る言葉を聞いて、大いに心を打たれ、こう答えました。これこそ、悔い改めた者の言葉であり、魂(たましい)の告白ではないでしょうか。
 ペトロは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、旧約聖書に記されている神さまのご計画を示しながら、証しし、語りました。そして、最後にこう言います。
「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。
 この言葉を聞いて、イスラエルの人々はハッとし、大いに心を打たれて、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と告白したのです。これは、自分がしてしまったことを「罪」と認めた人が、犯罪ではなくとも“人間”として罪だと認めた人が、その罪に心を痛(いた)め、相手に与えてしまった傷(きず)や損害(そんがい)を申し訳なく思い、どうしたらこの罪を償(つぐな)えるかと悩み苦しんでいる心のうめきです。まさに悔い改めの言葉にほかなりません。
人々の中には、主イエスの十字架刑に関わった人が少なからずいたことでしょう。主イエスを捕(と)らえに行った下役たちがいたかも知れません。主イエスの有罪に賛成した議員がいたかも知ません。深く考えず、皆と一緒に“主イエスを十字架につけろ!”と叫んだ人が少なからずこの中にいたでしょう。主イエスが十字架刑になるのは当然だと思って、処刑を見物した人がいたでしょう。主イエスの教えを聞いて感動しながら、数日後に手のひらを返した人がいたでしょう。彼らは、自分の罪を心に思いながら、「どうしたらよいのですか」と素直に、ペトロら使徒たちに尋(たず)ねたのです。
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 けれども、これほどまでに自分の罪を認め、悔い改めを口にするのは、とても難(むずか)しいことではないでしょうか。私たちは、自分を省(かえり)みれば、悔い改めがどんなに難しいことかを知っています。“私”も、自分の胸に手を当てれば、素直な悔い改めがなかなかできないことに思い当たります。私たちは、自分の罪を認めず、言い訳をし、自分を正当化することがしばしばあるのではないでしょうか。ちょっとした失敗から大きな過(あやま)ちまで、それを素直に認めて悔い改められないことが、なんと多いことでしょうか。
 私はふと、創世記3章のエデンの園(その)の話を思い起こします。禁じられた木の実を食べてしまったアダムとエヴァは、神さまから“食べたのか?”と聞かれて、それを素直に認めず、女のせいだ、蛇(へび)のせいだと言い訳をし、自分を正当化しようとしました。本当は、“食べました。ごめんなさい。どうしたらよいでしょうか”と二人は素直に悔い改めればよかったのだと思います。しかし、神さまを信頼せず、自分で自分を正当化せずにはいられない。アダムとエヴァの姿は、私(たち)の姿だと本当に思います。
 それでも、私たちは自分の罪(つみ)に打ちのめされる時があります。最初は言い訳したり、自己弁護(じこべんご)をしていても、こんなことをして、こんなことを言って、この人を傷(きず)つけてしまった、あの人をあんな目に合せてしまったと、申し訳なく、心が痛む時があります。“神さま、どうしたらよいのですか”と悩み、うめくことがあります。
 私にも覚えがあります。教会員との関わりと牧会(ぼっかい)の失敗、家族との関係での過ち。最初は言い訳をし、自分を正当化しようとしました。でも、教会の方が悲しみ苦しむ姿を見、家族が傷つき、うずくまる姿を見て、自分の罪を思い、相手にそのようにしてしまったことに心が痛みました。神さまと向き合い、「どうしたらよいのですか」と、うめかずにはいられませんでした。今も調子に乗って失敗し、「どうしたらよいのですか」と悩む時があります。眠れない夜を過ごすことがあります。
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「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねる人々に対して、ペトロは語りかけます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)。
自分がしてしまった行為や言葉は無かったことにはできません。相手の心につけてしまった傷は消すことができません。償いたくても償えないこと、謝(あやま)っても元には戻(もど)せないことが、私たちの人生、人間関係にはあります。自分の力では、どうにもできないことが少なからずあるのです。でも、そこから逃げられない。向き合わなければいけない。だから、私たちは“どうしたら?”と救いを求めてうめきます。
そのような私たちに、ペトロは語りかけます。「罪を赦していただきなさい」と。罪は赦されるのです。罪を無かったことにするのではありません。目をつぶることでも、何か代わるもので償うことでもありません。赦されるということは、無かったことにはできない罪を持っている者が、罪ある者として受け入れられ、愛されるということではないでしょうか。そういう生き方があることを聖書は示しているのです。
キリストの十字架は、イスラエルの人々が主を十字架に架けた罪を示すように、私たちが人を傷つけた罪を示す象徴(シンボル)です。けれども、同時に十字架は、神の子キリストが私たちの罪のために死んでくださった“愛”の象徴(シンボル)です。十字架は、私たちが罪ある者として、神に受け入れられ、愛されている証拠(しょうこ)です。
そして、洗礼とは、幅広い意味がありますが、今日の聖書の内容から言えば、自分が罪人(ざいにん)のままで受け入れられ、愛されていることを信じた人の“魂(たましい)に押される刻印(こくいん)”です。罪を覆(おお)う、消えることのない“愛の刻印”です。安心の確かなしるしです。
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 「どうしたらよいのですか」。どうにもできなくて、そのようにうめいている私も、今日の御言葉(みことば)を黙想(もくそう)して、とても慰(なぐさ)められました。心を癒(いや)されました。きっと聖霊が働いてくれたのです。聖霊が私の心に示してくれたのです。自分の中にある深い罪の問題に気づかされた時、自分の知恵や力ではどうにもできないことがしばしばあります。けれども、「どうしたらよいのですか」とうめき、悔い改める私たちに、“しょうがない奴だなー。でも、あなたを愛しているよ”と語りかけてくださる神の声を心に聴(き)くことができたなら、私たちは自分を取り戻し、もう一度生きることができるでしょう。

 

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