坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年8月23日 主日礼拝説教          「皆一つになって」

使徒言行録2章43~47節

説教者 山岡 創牧師

 

2:43 すべての人に恐(おそ)れが生じた。使徒(しと)たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。
2:44 信者たちは皆(みな)一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参(まい)り、家ごとに集まってパンを裂(さ)き、喜(よろこび)びと真心(まごころ)をもって一緒(いっしょ)に食事をし、
2:47 神を賛美(さんび)していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救(すく)われる人々を日々(ひび)仲間に加(くわ)え一つにされたのである。

 

        「皆一つになって」
 「一つに」。今日の聖書の御言葉(みことば)を黙想(もくそう)していて、すぐに気づいたことは、「一つに」という言葉がたくさん出てくる、ということでした。
 ペンテコステのお祭りの日に、聖霊(せいれい)が使徒たちに降(お)り、ペトロが使徒たちを代表して、イエス・キリストのご生涯を、特に十字架刑と復活の出来事を語りました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)。この言葉を聞いた人々は、大いに心を打たれ、悔(く)い改(あらた)めて、その日に3千人ほどが洗礼(せんれい)を受け、使徒たちの仲間に加わったことが、直前の箇所(かしょ)に書かれています。
 これら使徒たちとその仲間たちの信仰(しんこう)生活の様子が、今日の箇所に描かれています。生まれたばかりの最初の“教会”の様子です。そして、その信仰生活、教会の交わりを表わすキーワードが「一つに」という言葉だと言ってよいでしょう。
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 教会が一つになる。何かとてもすてきな響きを感じます。イエス様を中心にした人々の麗しい交わりを感じます。でも、「一つに」ということを誤解をすると、教会が違う方向へ、イエス様の心とは違う方向へ進んで行きそうな危険も感じます。そういう間違った教会の姿が聖書の中には少なからず記されているのです。教会が一つになるとはどういうことでしょうか?大事なことです。
 例えば、彼らは、「すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(44~45節)といいます。これができるのは、いわゆる“家族”だけだと思います。私たちの教会も“神の家族”を目指してはいます。けれども、教会のために信仰をもって献(ささ)げますが、すべての物を共有にするなんてところまでは、とてもできません。なぜなら、皆、それぞれの生活があるからです。
 では、そうならなければ「一つ」とは言えないのか?そうではありません。当時の教会の人々には、“天に昇ったイエス様は、もう一度この世界にやって来る。世界は変わる。だから、今までのこの世の財産は必要ではなくなるんだ!”という思いがありました。つまり生活を気にしなかったのです。皆が、主イエスの再来を待ち望む熱い信仰に生きたのです。すごいことではあります。けれども、それがイコール“一つになる”ということではないと私は思うのです。ある意味で、同じ方向を目標にし、行動すると、ともすれば、それができない人を排除(はいじょ)する結果になりかねません。
 また、彼らは神殿礼拝と家庭集会を共にしていたことが記されています。それらは信仰生活の基本、教会の土台です。御言葉と祈りの交わりなくして、教会はありません。
 でも、そうしているから「一つ」と言えるかと言えば、それもちょっと違う気がします。要するに、「一つ」ということは表面的な形や活動で決まるのではなく、私たちの交わりの、もっと本質的なところにあると思うのです。
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 「一つ」ということの内容を考えながら、私はふと、コリントの信徒への手紙(一)12章を思い起こしました。その13節に「一つの霊によって、わたしたちは‥‥皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」とあります。つまり、一つの霊をいただき、一つの体になることが「一つ」になることではないかと思ったのです。そして、12章には何が書かれているかと言えば、一人ひとりが目や耳や、手や足にたとえられ、キリストの体である教会に必要な部分として存在しているということです。一人ひとり、人種も身分も、できることも働きも違う人が皆、必要な存在であり、受け入れられ、互いに配慮(はいりょ)し合う教会の姿です。「お前は要(い)らない」なんて言われる人は一人もいない。むしろ、弱く見える部分こそ必要であり、引き立てられる。共に喜び、共に苦しむ人と人との交わりが描(えが)かれています。
 その人々には「一つの霊」が通っている。言い換えれば、“愛”という温かい血が通っています。自分はイエス様に愛されている。“どんな自分”であっても、イエス様に赦され、受け入れられ、認められ、信頼され大好きだ、いつも君のそばにいるよ!とエールをいただいている。だから、決して自分を誇ることなく、互いに愛し合う。そんな愛が一人ひとり、そして教会全体に通っていることが描かれているのです。
 しかも、ペトロら使徒たちは、この恵(めぐ)みを“上から目線(めせん)”で説教したのではないと思います。自分たちも誇(ほこ)ることなどできない、イエス様を見捨(みす)てた、イエス様を十字架に送った罪人なんだ。でも、そんな自分が赦され愛されたのだ。と心から証ししたに違いありません。その思いが人々にも広がり、愛が広がり、「喜びと真心」(46節)のある愛の交わり、愛の教会を生み出していった。それが一つになるということの本質だと思います。要するに、一つになるとは、互いに愛し合うことにほかなりません。
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 その愛に立って、使徒たちと仲間たち、最初の教会は、持ち物を共有にし、集まって神殿礼拝と家庭集会を共にしました。では、私たちは今、この愛に立って何ができるでしょうか。新型コロナ・ウィルス感染(かんせん)が再び広がる中で、私たちは集まることができません。集まって一つの礼拝を守ることができません。今日も教会と自宅とに分かれて礼拝を守り、会えない人が少なからずいます。
そういう状況で、私たちが一つになれること、互(たが)いに愛し合えることは何か?互いに祈り合うことだと、私は思うのです。離れていても、教会の仲間のことを思い、愛を込めて祈り合う。礼拝が休止になった時に配布した〈祈りの名簿〉を、ぜひ活用してください。教会に関わる人の名前がすべて載(の)せられています。それを見ながら、知っている人のために、また知らない人のためにも、その人の健康と生活が守られるように、信仰が保たれるように、家族が守られるように祈り合いましょう。知らない人のことなんて祈れないと思うかも知れません。でも、その人のために祈っていたら、コロナ感染が終息(しゅうそく)して、みんなで集まれるようになった時、“私が知らずに祈っていた人は、この人だ”と名前と人物が一致(いっち)し、親しみが湧(わ)くに違いありません。
祈りには愛が通います。聖霊が働きます。離れていても、私たちの心を愛で結び、一つにします。「一つ」とは、互いに愛し合う“愛”が通っている、ということです。

 

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