坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年8月30日 主日礼拝説教         「立ち上がり、歩きなさい」

使徒言行録3章1~10節
説教者 山岡 創牧師

 

◇ペトロ、足の不自由な男をいやす
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上(のぼ)って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内(けいだい)に入る人に施(ほどこ)しを乞(こ)うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒(いっしょ)に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍(おど)り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美(さんび)し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者(もの)だと気づき、その身に起こったことに我(われ)を忘(わす)れるほど驚(おどろ)いた。

 

       「立ち上がり、歩きなさい」
 ペトロとヨハネは、「午後3時の祈りの時に神殿に上って行」(1節きました。使徒たちと洗礼を受けたその仲間たちは、神殿に行って祈(いの)ることを大切にしていました。午後3時も含め、ユダヤ教では1日3回、祈りの時間が決まっていました。どうして祈りの時間が決まっているのか?自分でできる時間に祈りを献(ささ)げるのではだめなのか?確かに、その方が合理的です。でも、それは人間中心の考え方ではないでしょうか。祈りの時間が決まっているのは、私たちが神さまに愛され、あがなわれ、“神さまのもの”になったからです。だから、自分の都合で自由に使えない時間を設(もう)けて、それを神さまに献げるのだと思います。それは、神さまの愛と救(すく)いに対する私たちの心からの応答(おうとう)です。

 そういう意味で、私たちにとって日曜日の10時半という時間はとても重要なのです。新型コロナ・ウィルス感染により教会をお休みし、自宅で礼拝を守る人が増えました。教会ではインスタグラムによる礼拝動画配信を始めました。オンタイムだけではなく、1週間保存され、見ることができます。でも、後で見られるから後にしよう、ではなく、10時半から見て、礼拝を共にしていただきたいのです。動画を見ながら礼拝を守るにせよ、動画が見られず自分のやり方で祈りをささげるにせよ、日曜日の10時半に礼拝を守るということを大切にしてほしいと思います。どうしても都合が悪い時だけ、後で視聴(しちょう)するようにする。なぜなら、その時間は私たちのものではなく、神さまのものだからです。
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 さて、ペトロとヨハネが神殿に上って行った時、「生まれながらに足の不自由な男」(2節)が神殿の門のそばに運ばれて来ました。神殿参(しんでんまい)りに来る人々に施しを乞うためでした。そこにペトロとヨハネが通りがかり、両者は視線(しせん)を合(あ)わせます。男は、二人を“自分に金を恵んでくれる人”と見て、施しを乞いました。では、ペトロとヨハネはこの人をどのように見たと思いますか?‥‥憐(あわ)れな物乞(ものご)い?、律法(りっぽう)を守れない罪人?、神さまに呪(のろ)われて足が不自由な人間?‥‥そうではないと思います。「この人もアブラハムの子」(ルカ19章9節)、二人はそのようにこの人を見たに違いありません。
 二人の師であるイエス様は、どんな人でも「アブラハムの子」と見たのです。簡単に言えば、“神さまに愛される人間”ということです。徴税人(ちょうぜいにん)ザアカイの物語(ルカ19章)は多くの方がご存じでしょう。ユダヤ人社会の価値観からすれば、ザアカイは、律法を守らない罪人、汚れた外国人と付き合い神さまから見捨(みす)てられた人間。そういう価値のない人間と見なされ、忌(い)み嫌(きら)われていたのです。
 ところが、イエス様は、そんなザアカイに声をかけ、家に行って食事を共にし、「あなたの家に泊まりたい」と言われた。それは、ザアカイを、神さまから呪われ、人から忌み嫌われた罪人ではなく、“神さまに造られ、愛されている人間”と見ていたからです。
 ペトロとヨハネも、目の前の人を、そのように見たのです。人から蔑(さげす)まれ、自信を失い、自分の価値を見失い、あきらめて生きていたこの人にとって、神様に愛されている、大切な人という見方は、死んでいた心をハッとさせるに十分だったと思います。信仰と愛によって成り立つ人間観です。
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 この愛を、二人は行動で表します。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。 私たちの生活にはお金が必要です。お金が問題を解決することもあります。けれども、お金では決して解決できないことがあります。それは、人の心、人の魂(たましい)の問題です。
 人として愛されず、物乞いとしてうずくまっていた人を、二人は、神さまに愛される大切な人と見ました。この人に手を差し伸べました。この人に寄り添(そ)おう、この人をちょっと愛で支(ささ)えよう、と思ったのです。持っているものとは、イエス様からいただいた“愛”です。その愛を、この人にあげよう、分かち合おうと考えたのです。すると、この人は躍り上がって、立ち上がり、歩き始めました。
 現代において、立ち上がって歩くということは、必ずしも障(しょう)がいや病気が治(なお)るということではないと思います。イエス様のように、ペトロのように、私たちは奇跡を起こせない。でも、相手を愛することはできる。黙って話を聞くことはできる。寄り添うことはできる。受け入れることはできる。そうすることによってきっと、その人の心は立ち上がるのです。その人の魂は、愛によって歩き始めるのです。
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 教団が出版している伝道冊子(さっし)『こころの友』9月号に、下館(しもだて)教会の山野 心(やまの しん)先生の記事が載(の)っていました。彼が埼玉地区にいた時代から、キャンプや様々な活動で親(した)しくしていた30代の牧師です。山野先生は平日、学童保育で働いているのですが、ある日、小5のHくんの保護者から連絡がありました。小5になって学童を辞(や)めてから、学校に行っていない、と。Hくんは小4の時、教会にも来ていたので、山野先生は、彼が教会で仲良くなった20代の青年Iくんと一緒に、朝の訪問散歩を始めたそうです。かえってHくんの負担にならないようにと、“来たよ、おはよう!”“ついでに寄ったよ”と“声をかけるだけ”の朝の散歩が続きました。やがてHくんは少しだけ学校に通えるようになりました。そして、昨年のクリスマスになんと!洗礼を受けたそうです。自分の洗礼の意志を言い表(あらわ)す時、Hくんは“Iくんも洗礼を受けているし"と付け加えたそうです。自分のことを心にかけ、愛してくれるIくんが洗礼を受けているから、自分も受けよう。それは、Iくんの愛が伝わり、HくんがIくんのようになりたい、と思った結果でしょう。Hくんが教会の交(まじ)わりに、神さまとの関係に“愛の安全基地”を探し当てて、立ち上がり、歩き始めたということでしょう。
‥‥持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。イエス・キリストの愛は、人を立ち上がらせます。その愛をいただいている私たちは、だれかに対して直接、“立ち上がり、歩きなさい”という言い方はできませんが、相手を愛し、寄り添(そ)うようにしたいと思います。そうすることで、その人の心が立ち上がり、歩き始めることができたら、こんなに大きな喜びはありません。

 

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