坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年10月4日 主日礼拝説教          「主イエスのほかには」

聖 書 使徒言行録4章8~14節

説教者 山岡 創牧師

4:8 そのとき、ペトロは聖霊(せいれい)に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善(よ)い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆(みな)さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石(おやいし)となった石』/です。
4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
4:13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆(だいたん)な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚(おどろ)き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
4:14 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。

 

        「主イエスのほかには」
「ほかのだれによっても、救(すく)いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていなのです」(12節)
 最高法院というユダヤ人の議会において尋問されたペトロは、このように答えました。神殿で、生まれつき足の不自由な人を癒し、驚いて集まって来た人々に、ペトロはその訳を、すなわちイエス・キリストの名がこの人を癒(いや)したと語りました。その様子を、神殿でのルール違反、越権(えっけん)行為と見なされ、神殿の管理者や指導者たちに捕まり、尋問されることになったのです。しかし、ペトロは、主イエス・キリストによる以外に人の救いはない、と「大胆な態度」(13節)で証言したのです。
 主イエスの愛の「権威(けんい)」について、また主イエスが愛によって教会を支える「隅(すみ)の親石」(11節)となったことについては、先週の礼拝説教でお話をしました。
主イエスの名が、言い換えれば、主イエスの愛の力が、この人を癒した。それと同じ愛によって救われた私は、主イエスの“愛の権威”の下に行動し、語っている。「ほかのだれによっても、救いは得られません」(12節)。ペトロは確信的に語りました。
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 けれども、この言葉を、現代のクリスチャンである私たちは、どのように受け止めていけばよいのでしょうか?文字通りに受け止めれば、イエス・キリストによる以外に人の救いはない、つまりキリスト教以外の宗教には救いはない。イエス・キリスト以外の神には、人は救えない、ということになります。
 もしも私たちクリスチャンが、このことを明言し、主張したら、他宗教(たしゅうきょう)を信じている人々は納得しないでしょう。どうしてそんなことが言えるのか?我々の宗教と神を否定する確かな証拠(しょうこ)、客観的(きゃっかんてき)な根拠(こんきょ)があるのか?!
 そう言われたら、確かな証拠、客観的な根拠などありませんし、現代においてもキリスト教でこういう奇跡(きせき)があったと提示したとしても、何ら証明にはならないのです。だいたい、逆の立場で、他宗教を信じている人から、自分たちの宗教以外に救いはない、キリスト教信仰に救いはない、幻想(げんそう)だ、偶像(ぐうぞう)だと言われたとしたら、私たちも思うでしょう。失礼な話だ。ナンセンスな議論だ、と。
 では、私たちのキリスト教信仰と他宗教とを、どのように考えればよいのでしょうか? 私が30年ほど前に神学校(東京神学大学)で学んでいた時、宗教学という授業がありました。世界の諸宗教を学問的に学びました。その授業で、ジョン・ヒックというイギリスの牧師・神学者が書いた『神は多くの名前を持つ』という本を読みました。簡単に言えば、世界には諸宗教(しょしゅうきょう)があり、多くの神々がいるが、それは唯一(ゆいいつ)の神が、それぞれの宗教で別の名前で呼ばれ、礼拝されているだけで、実は同じ神なのだ、という内容でした。例(たと)えて言えば、富士山に登るには様々(さまざま)なルートがある。吉田(よしだ)ルート、富士宮(ふじのみや)ルート、御殿場(ごてんば)ルート、須走(すばしり)ルート‥‥登っている途中の景色、山の姿は全く違う。でも、頂上は一つ、同じ場所に到着する。諸宗教も、それと同じだと言うのです。
 非常に合理的な考え方です。宗教間の争いを解決したいという願(ねが)いがあることも分かります。“みんな、色んな宗教があるけれど、みんなが信じている神さまは実は同じお方だから、仲良くしようよ”ということです。一つの理解、信じ方だとは思います。
 けれども、本気で自分の宗教と神を信じている人はだれも、この考え方に“その通り”と納得(なっとく)はしないと思います。私たちだって、イエス・キリストと、仏教の仏様(ほとけさま)と、イスラム教のアラーが同じ神さまだと言われても、納得できないでしょう。理屈としてはありでも、実際に自分の神を信じて生活している私たち“生きた人間”にとっては、飲み込(のみこ)めない考え方だなぁ、と思うのです。
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 では、他宗教を否定するのではなく、また諸宗教の神は同じと認めるのでもないとしたら、「ほかのだれによっても、救いは得られません」という御言葉(みことば)を、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか?私は、諸宗教を学問的に研究するのはともかく、本物か偽物(にせもの)かと是非(ぜひ)を論じること自体がナンセンスだと思います。先にも言いましたが、どの宗教にも自分の神を本物だ、唯一(ゆいいつ)だと証明する確かな証拠、客観的な根拠などないのです。あるのは、自分はこの宗教を、この神さまを信じて救われたという主観的(しゅかんてき)な“私自身の”信仰だけです。それで十分なのです。
 一つの宗教とその神さまを信じて、喜びを感じるなら、慰めを感じるなら、幸せを感じるなら、“自分は愛され、大切にされている”と感じるなら、つまり自分は救われたと感じるなら、その宗教は本物です。少なくとも信じた自分にとっては真実です。そして、その信仰は“生きる力”になります。私たちの内側を支える“心の土台”となります。
 そういう意味で主イエス・キリストを、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と私たちは信じている。けれども、他の宗教にも、それを信じている人の真実があるから、その宗教を否定せず、認めていく。私たちはそれで共に生き、平和に過ごすことができるのではないでしょうか。本物かどうかは、いずれ天国に行ったら分かる。それぐらいの余裕(よゆう)を持って、私たちは他宗教に対して寛容(かんよう)かつ謙虚(けんきょ)でありたいと思うのです。
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 「ほかのだれによっても、救いは得られません」。ペトロの証言は、他宗教を否定する、排他的(はいたてき)な主張ではありません。“自分は主イエスと出会った。主イエスに教えられ、導(みちび)かれ、自分の罪(つみ)を知った。そんな、自己中心で、しかも主イエスを見捨(みす)てた卑怯者(ひきょうもの)の自分でさえも、主イエスは赦(ゆる)し、愛し、リスタートさせてくださった。主イエスこそ、私の救いだ”。そのように、救いの究極(きゅうきょく)を、主イエスの内に見出した信仰の確信を、ペトロは告白している。ただ、それだけです。他人に押し付けているのではありません。
 そして、その確信(かくしん)を持った人は、「無学(むがく)」(13節)を恥じず、どんなに「大胆(だいたん)な態度」で、自由に、自分らしく生きられることか。ペトロは、かつては他の弟子たちと同様、比べ合い、競争し、自分の出世ばかり考えている人間でした。しかも、自分の身が危うくなると、主イエスを見捨て、“知らない、関係ない”と保身(ほしん)を図(はか)る人間でした。そんなペトロが、同じく最高法院の裁判の席で、こんなにも堂々と、生き生きと主イエスを証ししている。
主イエスの愛を信じ、その救いに生かされている人は、大胆です。生き生きとしています。自由です。自分らしく振舞(ふるま)います。喜(よろこ)びがあります。平安(へいあん)があります。人を恐(おそ)れません。私たちもそうです。主イエスの愛と救いを信じたら、きっと変わります。

 

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