坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年10月25日 主日礼拝説教          「必要に応じて」

聖 書 使徒言行録4章32~37節

説教者 山岡 創 牧師

 

◆持ち物を共有する
4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証(あか)しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
4:34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰(なぐさ)めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 

         「必要に応じて」
 もしも、初めて教会の礼拝に出席した人がいて、その日の礼拝で朗読された聖書の御言葉(みことば)が今日の箇所(かしょ)だったら、ギョッとするかも知れません。と言うのは、「信じた人々の群れは‥‥すべてを共有していた」(32節)「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き‥‥」(34~35節)とあるからです。この御言葉を読んで、キリスト教の教会もやはりこういう集団なのだろうか?まるで現代のカルト宗教のようではないか?これでは、土地や家を献(ささ)げた人のその後の生活はどうなるのだろうか?献(ささ)げた人も、その後の生活はだれかの献金で支えてもらったのだろうか?‥‥そんな驚きと疑いを感じたとしても、決して不思議ではありません。
 皆さんは、今日の聖書箇所をどのようにお考えでしょうか?見方によれば、初代教会の信者たちが、愛によって互いにメンバーの生活を支え合う、麗(うるわ)しい相互扶助の様子だと受け取ることもできます。また、私たち坂戸いずみ教会は〈キリストの愛とともに歩もう〉という願いを掲げ、「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)をモットーに、教会造(つく)りをしようと祈り求めています。けれども、互いに愛し合うという視点で考えた時、私たちは、今日の御言葉をどのように受け取り、従い、実践すればよいのでしょうか?
 私たちには、一人ひとり自分の生活があります。他人に甘えることはできません。それを考えずに、大きな献金をすることはできません。もちろん私たちは、教会の営みを維持していくために、献金をささげます。私たちが共に集まり、礼拝を守り、互いに愛し合う交わりを続けていくために、献げます。けれども、それは自分の生活を守りながら、その中で献げるものです。すべてを献げることではありません。
 それなのに、今日の聖書箇所では、自分の持っているものの大半を、ほとんどすべてを献げてしまっているように思われます。信仰生活とは、教会生活とは、本来そういうものなのでしょうか?私たちは、この姿を、どう受け止めれば良いのでしょうか?
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 実は、この献金と生活の相互扶助には、ここには描かれていない背景があると、私は考えています。それは、使徒言行録1章11節で天使が告げているように、復活して天に昇られた主イエス・キリストが再びおいでになるという約束が、ペトロら使徒たちや信者たちにとって大きな希望であり、目標となっていたということです。主が再び天からおいでになる。そして、この世界を神の国に造り替え、自分たちを迎え入れてくださる。これを、キリストの“再臨(さいりん)”と言いますが、しかも、それがすぐにも実現する、自分たちが生きている間に起こると信じられ、大いに期待されていたのです。
新しい世界、神の国では、この世の財産や金銭は必要ではなくなります。だから、主の再臨の日まで、その時は近いのだから、信者同士、助け合って、共に生活できればそれでよいと、土地や家など大きな献金がささげられたのだと思われます。
けれども、残念なことに、彼らが期待したような主の再臨は、すぐには起こりませんでした。エルサレムの教会の信者たちは、経済的に困窮(こんきゅう)し始めます。その貧しさを助けるために、その後の異邦人伝道によって海外に生まれたマケドニアの教会やコリントの教会の信者たちが献金して支援しました。それが、コリントの信徒への手紙(二)8~9章に記されています。そして、初代教会の信者たちが信じて期待したような主の再臨はその後、現代に至るまで起こってはいません。だから、私たちは、自分の生活を営みながら、今日の聖書箇所をどのように受け止めるかを考える必要があるのです。
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 教会において、互いに愛し合い、助け合う交わりを造り上げていく。もちろんそれを、単に精神的な意味にだけ受け取れば良いとは思いません。場合によっては、教会に泊めたり、一時的な生活の場所として教会の部屋を提供したり、また物質的、金銭的な援助が必要になることもあるかも知れません。
 そういう具体的な行為の中で一つ、主のために、また私たちの交わりのために、大きな献げ物をする場合をお話します。それは、会堂建築をする時です。私たちは、この会堂を2005年に建築し、移転しました。それまでは、同じ泉町の高麗川大橋のたもとにある小さな中古の一軒家で礼拝を守っていました。段々と新しい方々が加わって狭くなり、当時の教会員メンバーは土地の購入と新会堂建築を決心しました。私たちはそのために祈りました。やがて、この場所が見つかりました。もちろん、祈りだけしていれば神さまが与えてくださる、というものではありません。祈りは信仰的な行動につながります。私たちは、土地購入と会堂建築のために献げました。両方で8,000万円近い金額が必要でした。今の半分ぐらいの人数で、どれだけの献金がなされたか、想像してみてください。若い人たちは、これから20年、30年後に、この教会の会堂建築が再びあるかも知れません。あるいは、仕事や結婚等で転居して、新しい教会に移った時、その教会で会堂建築があるかも知れません。献げることは、主のために、互いに愛し合うために、助け合うために、必要な信仰と愛の業だということを覚えておいてください。
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 もう一つ、今日の聖書箇所を黙想していて、クリスチャン作家であった三浦綾子さんが、愛について書き表した言葉を思い起こしました。それは、“親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、ほんとうの愛なのかも知れない”という言葉です。三浦綾子さんは、太平洋戦争を経験して、何を信じて良いのか虚無に陥っていた時、幼馴染み(おさななじみ)の前川正に再会します。正は、自分が結核で死ぬまでの数年間、三浦綾子さんの虚無感を案じ、関わり続け、対話をし続け、祈り続け、ついに自分自身が死んでも、彼女が信仰によって自立して生きていけるように導いた人です。前川正さんとの関係を体験したことから、三浦綾子さんは、愛とは相手を自立せしめることだと書いているのです。(『道ありき』より)
 私たちがクリスチャン同士として、相手を精神的に自立せしめるとは、どうすることでしょうか?相手の話を否定せずに聞くこと、相手を尊重すること、信頼すること。そういったことが私の頭に浮かびました。そして何より、相手のために祈ることだと思うのです。その人が神さまを信じて、主イエスに支えられて、自分の心で立ち上がって生きていけるように、主の助けを祈ることです。その陰(かげ)の祈りなくして、私たちが互いに愛し合うことはあり得ません。祈ることは、愛することです。
 コロナ感染の中で、私たちはなかなか、十分に言葉を交わし合うことはできません。けれども、愛において、互いに祈り合うことを大切にして進みたいと願います。

 

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