坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年11月1日 永眠者記念礼拝説教      「あなたがたを迎える」 

聖 書 ヨハネによる福音書14章1~6節
説教者 山岡 創牧師

◆イエスは父に至る道
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 

          「あなたがたを迎える」
 本日は、教会の暦(こよみ)の上で、天の御国(みこく)に迎え入れられた方々を偲(しの)ぶ〈聖徒(せいと)の日〉を迎え、永眠者記念礼拝(れいはい)を守っています。とは言え、例年と違い、コロナ感染が未だ納まらない状況の中で、私たちは今日の礼拝も、また午後の墓前礼拝も、三密を避けるために様々な制限を設けて実施せざるを得ません。
 三密を避ける。そのために、私たちは、一つの空間に入る人数を減らすことになります。教会もそうです。今、皆さんがお座りになっているように、3人掛けの椅子の真ん中を空けたり、1列分空けたりしながら座っていただいています。フルで座れば70人ぐらい、この礼拝堂に入れるのですが、今は27人分の座席に制限しています。
 そのように感染対策に苦心し、みんなで一緒に礼拝を守ることができない寂しさを感じる中で、今日の御言葉(みことば)の一句は、とても心に響きました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(2節)。
 最後の晩餐(ばんさん)の席上で、主イエスは弟子たちに、これから私が行く「父の家」、「父のもと」(6節)には、住む所がたくさんある。「場所」がたくさんある、と言われました。今まで歴史上、どれほどの数の人が、この父の家に迎え入れられたか分かりません。それでもなお余りある、住む所がたくさんあるのが「父の家」に違いありません。もし仮に、その場所を空間の広さでイメージするとしたら、この広大な、どれだけ広いのか果てが分からない宇宙空間。それをお造りになったのは父なる神さまなのですから、その宇宙よりももっと広いのが「父の家」だと言っても間違いではないでしょう。
 それほどの所に、主イエスは、「行ってあなたがたのために場所を用意する」(3節)と弟子たちに、そして私たちに約束してくださいました。だから、私たちはこの約束を信じたら、自分も、また自分の愛する人も、主イエスが父の家に用意してくださる広い場所に迎え入れていただくことができると、希望と平安を得ることができるのです。
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 主イエスが父なる神のもとに行く。けれども、それは現実には、主イエスが十字架に架けられて死ぬ、ということでした。主イエスは、神の国を宣(の)べ伝えて来ました。神の愛を宣べ伝えて来ました。掟よりも愛を優先しました。その教えと行動が、ユダヤ教の指導者たちにすれば気に入らないわけです。両者は対立し、遂に主イエスは、掟を破り、神を冒涜(ぼうとく)する罪人として、指導者たちに処刑されることになります。
 弟子たちは、その空気を敏感に察し、心を騒がせていました。イエス様は早晩、捕らえられ、処刑されてしまう。そうしたら、いったいどうなるのだろう?イエス様は、父の家に行くと言うけれど、それはどこなのだろう?その不安が、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」(6節)というトマスの言葉に表されています。
 死んだらどうなるのか?どこに行くのか?それが分からないと、私たちも心を騒がせます。死を恐れ、不安になります。
 けれども、主イエスは「心を騒がせるな」(1節)と言われ、「戻って来て、わたしのもとに迎える」(3節)と約束してくださいました。主イエスは「父の家」に、すなわち天の御国(みこく)に昇って、その後で、私たちを迎えに戻って来てくださるのです。だから、私たちは単に“死ぬ”のではありません。別の場所、新しい場所に“迎えられる”のです。
 ふと、子どもの頃、テレビで見ていたカルピス子供劇場で放映されていた〈フランダースの犬〉を思い起こしました。ベルギーのフランダース地方で、お祖父さんと一緒に暮らし、貧しいながらも画家を目指す少年ネロと老犬パトラッシュの物語です。そのラスト・シーン、クリスマスを前にして、放火犯だと濡れ衣を着せられ、お祖父さんは亡くなり、住んでいた借家も追い出されたネロは、吹雪の中を、最後の力を振り絞って、教会の祭壇に飾られている、憧れだったルーベンスの絵を見に行きます。そして、その絵画の前で、パトラッシュと一緒に、力尽きて死んでいきます。けれども、その時、天使が舞い降りて来て、ネロとパトラッシュを迎え、天国へと連れて行くシーンが、子供心にとても印象深く残りました。
 日本人でも“お迎えが来る”という表現をする人がいますが、それは、迎えてもらえる場所があることを信じているからこそ出てくる言葉ではないでしょうか。
 聖書の中にも、金持ちの門前で物乞いをしていたラザロという人が、死んだ時、天使たちによって迎えられ、宴席に連れて行かれた(ルカ16章)、という話があります。そこでは、天国は宴会場、パーティー会場にたとえられています。つまり、恐れや悲しみを乗り越えて、楽しく、笑顔で過ごせる場所として描かれているのです。
 もちろん、詳しいことなど主イエス以外、だれにも分かりません。ただ、私たちが地上の命を終える時、迎えてもらえる場所がある、「父の家」があると信じるか否かによって、私たちの生き方は大きく変わって来ることは確かでしょう。信じるものがないと、人は死を前に右往左往します。信じられるものがあることは本当に幸いな、心強いことなのです。
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 そのような「父の家」、天の御国へは、主イエスという“道”を通って行くのです。主イエスは、トマスの不安に答えて、「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)、私という道を通って、あなたがたは「父のもと」に行くのだよ、と言われました。主イエスが、私たちの命と天国とをつなぐ通路となってくださったのです。
 私たちは、心のどこかで、“善い行い、善い生き方をしなければ、神さまに認めてもらえず、天国に迎えてはもらえない”と思っているところがないでしょうか。けれども、主イエスの教えはそうではありません。天国は、自分で努力して入るところではなく、主イエスを通って入るところです。すなわち、主イエスの恵みによって迎え入れていただくところです。自分の努力なんて高(たか)が知れている。それどころか、私たちはエゴイスティックで、神も人も愛することができない罪人(つみびと)でしょう。そんな罪人が赦(ゆる)され、受け入れてもらえる神の愛を、主イエスは十字架に架かり、命がけて証明し、その愛を私たちの心に届けてくださったのです。そのような主イエスの救いの恵みを信じる。それが、主イエスという道を通って、永遠の命の世界、天国へと至るということです。
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 愛する人を偲ぶ今日この日、主イエスの約束を信じ、主イエスという道を信じ、天国に迎え入れられる慰めと希望を信じる者とならせていただきましょう。そして、やがていつか、私たちにもお迎えが来ます。その時には、愛する人と再会することができる喜びを胸に、今、与えられている自分の人生を信仰によって歩んでいきましょう。

 

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