坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年11月8日 主日礼拝説教       「神と自分はだませない」

聖 書 使徒言行録5章1~11節
説教者 山岡 創牧師

                                         ◆アナニアとサフィラ
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
5:2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒(しと)たちの足もとに置いた。
5:3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊(せいれい)を欺(あざむ)いて、土地の代金をごまかしたのか。
5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
5:6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
5:7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
5:8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
5:10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。


           「神と自分はだませない」
 皆さん、宝くじを買ったことがありますか?もうすぐ年末ジャンボ宝くじが売り出されます。862回目だそうです。私も、当たるかも知れない!というワクワク感を味わいたいと思って、毎年1枚だけ買おうと考えます。でも、1度も買ったことがありません。どうせ当たりっこない。300円がもったいない。それだったら、その300円で、ちょっと美味(おい)しいパンでも買った方がお得だ。そんなケチなことを考えてしまうのです。
 もしも1億円当たったら!‥‥どうしますか?すべて献金します‥‥なんて言えたら、格好いい半分の5,000万円を教会に献金しようと思います。そして、後の半分で、田舎に古民家を買ってリフォームし、牧師を隠退したら、そこで家具造り工房と家庭菜園とカフェでもやりながら暮らすのもいいなぁ、と考えたりします。
 でも、もしも本当に当たったら、5,000万円献金するのが惜しくなるに違いない。いや、10分の1の1,000万円でも惜しくなるかも知れません。宝くじに当たった人は、幸せになる人もいるでしょうが、かえって人生がおかしくなる人が多いという話を聞きます。お金というものは、欲によって人の心を狂わせる魔力があります。宝くじはともかく、普段の献金、皆さんは惜しいと思ったこと、迷ったことはありませんか?
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 エルサレムに生まれた最初の教会では、信者たちが、自分の土地や家を売っては、その代金を教会に献げ、持ち物を共有し、共同生活をしていたことが、直前の4章32節以下に記されています。現代の教会ではちょっと考えられないことですが、これには背景があります。彼らは、主イエス・キリストが天から再びおいでになり、この世界を神の国に造り変える。そうしたらこの世の財産は必要なくなる、と信じていたのです。
 4章の終りに、その一例として、この後、異邦人への伝道者として活躍するバルナバという人が、自分の畑を売って、その代金をすべて教会に献げたと書かれています。その結果、バルナバは、信者たちから尊敬の目で見られ、信頼を得たのでしょう。
 けれども、その事実がアナニアとサフィラの信仰をゆがませる要因になったに違いありません。アナニアとサフィラも、自分たちが所有している土地を売りました。最初は、その全額を献げるつもりでいたでしょう。けれども、全額を教会に献金することが惜しくなったのです。もちろん、ペトロが言うように、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになった」(4節)のです。けれども、二人はバルナバを見て、自分たちも信者たちから評価され、教会での名誉が欲しくなったのではないでしょうか。しかし、代金の一部を献げたのでは、信者たちの評価は得られない。いや、バルナバと比較されて、かえって評判を落とすことにもなりかねない。いったいどうしたら良いのか?
 そこで二人が考えたのは、代金の一部を持って来て、それを全額だと偽って献げることでした。そうすれば惜しいと思う金銭欲も満たされるし、信者たちの評価と教会での名誉も得られる。一石二鳥だと考えたのです。けれども、彼らがしたことは偽善でした。
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 ふと、主イエスが山の上の説教で教えられたことが頭に浮かびます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6章1節)。そう言って、主イエスは、施(ほどこ)しと祈りと断食という善い行いを、ほめられるために人の前でするな、それは偽善者のすることだと戒(いまし)められました。そして、善い行いは人が見ていない、隠れたところで行いなさい。「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(6章4節)と主イエスは教えられました。
 そうです、父なる神は、表面的な善い行いではなく、「隠れたことを見ておられる」のです。アナニアとサフィラの献金は、一部でも大きかったかも知れない。それを全額だと言えば、信者たちは二人をほめたかも知れない。けれども、父なる神はそこではなく、二人の隠れたことを、代金の一部を全額だと言って人の評価を得ようとした偽善を見ておられたのです。
 私たちは、“神さま”を欺き、だますことはできません。人はだませても、神さまは「隠れたこと」をすべて見ておられるのです。同時に、私たちは“自分”に嘘をつくこともできません。どんなに人をごまかしても、取り繕(つくろ)っても、言い訳して正当化しても、その嘘を自分だけは知っているのです。そして、一度ついた嘘は、その後で必ず追いかけて来ます。すると、私たちは嘘の上塗りをすることになり、最後には破綻(はたん)します。そういう経験を、私たち、1度や2度はしたことがあるのではないでしょうか。
だから、「隠れたこと」を見ておられる神さまの前に、正直に、誠実に、素直に生きること。また、自分に嘘をつかずに生きること。それがいちばん気持のよい、自由で、美しい生き方ではないでしょうか。
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 けれども、そのように生きることはとても難しいことを、私たちは知っていると思います。私たちは、常に正直に、誠実に、素直に、嘘をつかないで生きることなどできない“自分”を知っています。人には隠しておきたいことがある。だから、隠れたところを自分の内側につくるのです。けれども、その「隠れたこと」を神さまは見て、知っておられる。隠しようがない。あたかも、エデンの園でアダムとエヴァが、禁じられた木の実を食べて、神さまから隠れようとしたけれど、見つかってしまうかのようです。
 だとしたら、私たちは自分の不誠実を、頑(かたく)なさを、嘘を、自己正当化を、すなわち“罪”を認めて、悔い改める以外にないのではないでしょうか。神殿のいちばん後ろで、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈った徴税人のように、私たちも祈るほかはないのではないでしょうか。
 けれども、この徴税人こそ、神に赦(ゆる)されて、愛されて家に帰って行ったのだと主イエスは語っています。父なる神は、決して罰を与えません。アナニアとサフィラは、呪われて罰を受けたように見えるけれども、私はそうではないと思います。悔い改めるチャンスがあったはずなのに、二人はそれをせず、自分の罪が発覚したショックで倒れたのではないでしょうか。
 神の前に自分の罪を認め、悔い改めて祈ること。その態度こそ、誠実で、嘘のない究極の生き方でありましょう。私たちも、そうでありたいと願います。そういう、表面的には見えない私たちの隠れた姿を、父なる神は見て、喜んでくださるのです。

 

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