坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年11月15日 神学校日礼拝      奨励 『主の御選び』

聖 書 使徒言行録 9章1-12節    
説教者 日本聖書神学校  鵜﨑 寿神学生

◆サウロの回心(かいしん)
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

 

       奨励 『主の御選び』
キリスト教の歴史は不思議に満ちています。2千年前イエス・キリストはガリラヤで福音(ふくいん)を宣(の)べ伝え始め、多くの人が従いました。しかし、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督であったときに十字架により処刑されてしまいました。その福音に触れた人たちの望みは完全に絶たれ、みんなが、そのとき、すべてが終わったと思いました。
しかし、誰もがそう思っていたなか、キリストは復活され、キリスト教は広まっていきます。厳しい迫害の中、ローマ帝国全体へと広がっていき、今日のように世界中に広がるものとなりました。
 そのキリスト教を広めた人物の一人が、本日のパウロです。ここにサウロとありますが、サウロはヘブライ語での呼び名でパウロはギリシア語での名前になります。使徒言行録(しとげんこうろく)では、この回心を起点にギリシア語による名前のパウロを使って書かれています。
パウロは熱心なユダヤ教徒であり、イエスを信じる人々を弾圧した人物でありました。回心とは、人生の方向を180度変えることを言いますが、パウロはキリストの反対者から信仰者へとかわったのです。しかし、どうしてパウロが回心へと導かれたかについては考えさせられます。ある人は、その直前のステファノの殉教(じゅんきょう)に立ち会ったことが影響しているのではないかと言っています。ステファノの敬虔(けいけん)な姿から導かれたのではないかとの考えです。また、ある人は、弾圧していた取り調べの中で、信者からの証(あかし)を重ねて聴いているうちに導かれたのではないかと推測しています。使徒言行録を書いたとされるルカは、この九章のようにパウロの回心を劇的に描いていますが、実際に出来事としてはどのようであったか不明な点も多くあります。しかし、少なくとも、パウロが復活の主に出会った真実は、ここに代表されてよいと考えます。
神は「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」と言われたとあります。神は、大切なとき、名前を二回呼ばれることがあります。ここで、パウロは「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねます。「主よあなたはどなたですか?」とたずね求めることは、信仰で最も本質的なことと言えます。ここで、その声は「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」というのです。パウロはこのようにして復活の主イエスに出会い、神のご用のために用いられていきます。そして、主イエスは、この出会いの中で、パウロに先のことは伝えていません。ただ、「起きて町に入れ。あなたのなすべきことは知らされる」というのです。
本日の箇所には、もう一つ大切なつづきの話が描かれています。パウロの回心に、関わる重要な人物アナニアです。ルカによるとこの回心のストーリーの中で、パウロは目が見えなくなり、アナニアによる癒(いや)しが語られています。主は幻の中で、アナニアに呼びかけます。すると、彼は「主よ、ここにおります」と応えます。この部分を読むと、旧約聖書の少年サムエルのことを思い出します。そして、対照的に思い出されるのは、エデンの園の禁じられた果実をこっそり食べてしまったアダムとエバです。神に呼ばれたとき、隠れておりすぐに返事ができませんでした。「はい、ここにおります。」「ここ」とは神との平安な関係のある場所と言えます。アナニアが、信仰的な人物であることがわかります。
主は、アナニアにパウロのところへ行き、彼を癒すように命じられます。しかし、信仰深いアナニアも主に反対します。パウロがイエスを信じる人を次々に縛(しば)り上げて、エルサレムに連行していたからです。彼の言葉に、パウロに対するその強い怒りの感情が表れています。
しかし、主は「行け、彼はわたしが選んだ器(うつわ)である。」と言い、アナニアに行くように命じるのです。ここでアナニアは逃げ出さず、主の命令に従います。それは、なぜでしょう。ここで、注目したいのは、主の命令です。アナニアに、パウロは幻を見たのだと言います。その幻は、「アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元通り目を見えるようにしてくれる。」というものでした。アナニアは、どうか、別の人を遣わしてくださいと言いたかったと思いますが、この役割は、アナニアしかできないのです。他に誰も変わることのできない固有の使命を主は与えられたのでした。この苦しい使命を成し遂げさせるのに、主は、ほかにかわりを考えるのでなく、ただ、あなたにと向かい合うのです。主の内にプランBはありません。一対一で主と向かい合う中で、アナニアの信仰は、この使命を受け入れ、成し遂げるのです。そして、このアナニアの信仰の力は、パウロの信仰の力を押し出していきます。パウロはその後の人生を、主の福音宣教のために注(そそ)ぎ尽くします。神は、人の思いでは、到底考えられないやり方で、そのご計画を成し遂げられていくのです。
このパウロの仕事は、新共同訳聖書や口語訳聖書では、「わたしの名を伝える器」となっていますが、新改訳聖書では「わたしの名を運ぶ器」、カトリックのフランシスコ会訳聖書では「わが名をもたらす器」となっています。原文を調べてみると、新改訳の運ぶという方が原文の意味に近いかも知れません。器の第一の目的は、それ自体の大きさや質を吟味し合うものではないのです。私たち人間は、いつしか人物を評するのに器の大きさや器自体の質を語るようになりました。しかし、聖書によるとわたしたちはみな土の器なのです。器はものを入れて運ぶ時に使うものです。ここでは何を入れるのでしょうか。そうです、「主のみ名を運ぶ」ための器なのです。み選びにおいて、この器は、それ自体が重要なのではなく、ただ主の名を運ぶことがその使命なのです。
私たちの思いを超えて行われる神の選びは全く人間には思いも及びません。思いもよらない人を神は選ばれるのです。このパウロも実に不思議なキャスティングでした。アナニアに語られた言葉は、「あの者はわたしが選んだ器である。」というものでした。たしかにパウロもアナニアも、聖書の歴史において大変大きな働きをした人物です。特にパウロの働きは、多大なものであり、まさに「異邦人や王たち、そしてイスラエルの子らに、その名を運んだ」のです。そして、アナニアも、そのパウロを生み出した、いわば霊的な命の助産師的な役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、パウロやアナニアのように大きなことができなくても、同時に、わたしたち一人ひとりも主のみ選びと共にあることを覚えたいと思うのです。わたしたちも、その名を運ぶものとしても、それぞれにいろいろな形で選ばれています。そして、先ほどの原文の運ぶという動詞バスタゾーの意味は、何かを手で運んだり、動かしたりするだけでなく、背負ったり、耐えたりするという意味も持っているのです。聖書の他の箇所では、耐え忍んだり、十字架を背負ったりする意味で使われていました。
すでに、その声を聞かれた方もおられるでしょうし、信仰を持って、クリスチャンになったこと、あるいは主に導かれて、この教会に今日やってきたこと、そうした一つひとつのことは皆、主のご計画とみ選びによるのです。わたしたちの人生は、一見小さな平凡なものに見えるかもしれません。しかし、その一つひとつの歩みは、主のご計画とみ選びの内にあるのです。
主は、必ずわたしたちに語りかけてくださいます。常に、主のみ言葉を待ち望み、祈り続けましょう。神はわたしたちを、かけがえのない固有なものとして、向かい合い選んでくださる方なのです。それは、思いもよらないこととして起こるかもしれません。とても困難なこと、あるいは困難な状況の中かもしれません。そして、きっと先の見えない使命なのだと思います。それは、わたしたちにとって、限られたこの世の人生を主と共に歩むことこそが最も重要なことだからです。しかし、そのときこそ、わたしたちはパウロやアナニアのことを思い起こしましょう。主は必ずみ旨(むね)を成し遂げられるのです。

 

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