坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年11月29日待降節第1主日       礼拝説教「光は暗闇の中で輝いている」

聖 書 ヨハネによる福音書1章1~5節
説教者 山岡 創 牧師

◆言が肉となった
1:1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣(つか)わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

 

     「光は暗闇の中で輝いている」
 待降節(たいこうせつ)アドヴェントを迎えました。今日から主イエス・キリストのお生まれを喜び祝うクリスマスを意識しながら歩みます。この世は未だ新型コロナ・ウィルス感染が納まらず、第三波と言われる拡大の傾向にあります。医療現場の崩壊、そして再び緊急事態宣言が出されるのではないか、という噂(うわさ)を聞きます。皆さんも、多かれ少なかれ不安を抱(かか)えながら、日々の生活を過ごしておられることでしょう。
 けれども、コロナ禍の中で、今日の聖書箇所を黙想していて気づきました。私たちが生きる世界は、コロナ・ウィルスによって支配されているのではない。天地は、創造主である神によって造られた。「万物は言によって成った」(3節)。その神さまの意思によって、この世は治められているのだ、と。もちろん、私たちは現実に、コロナ・ウィルスに対応して生活しなければなりませんし、そのために労苦し、苦しみ悲しみを味わうこともあるかも知れません。けれども、天地を支配しておられるのは神さまです。私たちの人生を支え、最善に導いてくださるのは神さまです。幸いもあれば、災いもある。愚痴(ぐち)をこぼし、泣き叫びたくなることもある。しかし、そういったことすべてを、神さまは愛をもって最善に導いてくださる。無駄(むだ)に終わらせず、将来へとつなげてくださる。そう信じて生きる時、私たちの心に希望が生まれます。希望の光に照らされます。
                    *
 天地が造られた時もそうでした。創世記(そうせいき)の冒頭で、最初に神が言われたのは、「光あれ」(創世記1章3節)という言葉でした。その言葉によって、最初に光が造られました。 創世記1章をお読みになったことのある方で、不思議だ、おかしいと思ったことはありませんか?と言うのは、その後、太陽と月が造られているからです。つまり、最初に造られた光は、太陽の光、月の光ではないのです。では、いったい何の光だと思いますか?それはまさに「人間を照らす光」、人を生かす希望の光であったに違いありません。
 創世記が書かれた時、神を信じるイスラエルの人々は、バビロニアに国を滅ぼされ、多くの人々が捕虜(ほりょ)として連れて行かれ、不自由な生活を強制されていました。そんな捕虜の生活が、実際には50年近くも続いたのです。いつ終わるかも知れないそんな生活の中で、人々は希望を失い、気力を失い、生き甲斐を失っていきました。神さまへの信仰さえ失いかけていました。
 けれども、そんな同胞の仲間たちに、創世記の著者は語りかけたのです。この世界はバビロニアが支配しているのではない。我々が信じている唯一の、創造主なる神が支配し、導いておられるのだ、と。だから、今現在の捕虜の生活から解放され、故郷に帰れる日が必ず備(そな)えられている。そう呼びかけました。この希望が、創世記1章の冒頭で、最初に造られた「光」として、希望の光として描かれているのです。
                *
 ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)1章は、創世記の天地創造を、神の「言(ことば)」という視点で描き直しています。「言」とは、つまり神さまの意思です。神さまの思いです。だから、それは神さまそのものだ、同質だと言ってよい。それで、「言は神であった」(1節)と言われています。もう一歩踏み込んで言えば、「言」とは、人間を救いたいと願う神さまの“愛”です。その意思が、愛が、神さまの内から外に発されると、それは「言」になります。その「言」が、人となってこの世に来られたのがイエス・キリストだと、ヨハネによる福音書は私たちに紹介しているのです。
 そして、混沌(こんとん)とした暗闇の中に希望の光を造り出した「言」は、今度は人となってこの世にやって来て、人の心の暗闇の中に希望を造り出そうとしている。だからこそ、「言」は、「人間を照らす光」だ、主イエス・キリストは人を生かす命だと言われるのです。
                   *
 愛のある言葉は命を宿します。人を救い、生かします。だから、「言のうちに命があった」(4節)と言われます。皆さんも、言葉によって救われたことがあるのではないでしょうか。言葉に導かれ、支えられ、励まされ、慰められる。そんな“人生の言葉”を心にお持ちの方もおられるでしょう。それは聖書の御言葉(みことば)かも知れませんし、聖書ではない言葉かも知れません。いずれにせよ、そのような言葉には、私たちを生かす命が宿っていると言えます。
 『こころの友』11月号に、北川裕子さんというクリスチャンが紹介されていました。若者の自殺を予防する研究者として歩んでおられる人です。北川さんは、親しかった友人を3名、自殺で失いました。また、自分自身にも激しい自殺願望があったと言います。そういったことがきっかけとなって、彼女は自殺予防の研究に取り組みました。今は、保健室にさえ来られない生徒が、スマフォで心身の不調についてアンケートに回答し、早期発見、適切な支援につなげられるようなアプリを開発中とのことです。
 そんな北川さんが大学院で研究していたある晩のこと、自殺願望に駆られ、眠れず、真夜中に散歩をしていた時、たまたま教会の前を通りかかりました。掲示板に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と書かれていた。その御言葉に引かれ、次の日曜日、その教会に足を運びました。牧師から“よく来てくださいました”と笑顔でかけられた言葉が、“よく生きていてくださいました”という言葉に聞こえた。自分はここに居ていいのだと思えた、と北川さんは言います。そして、教会に通い続け、2014年には洗礼を受けられました。
 とは言え、今でも自殺で亡くなった大切な人たちを思うと辛(つら)いと言います。それでも、“神さまは友人らと最期まで、そして今も一緒にいてくれている。それが私の信じる神、主イエス・キリスト”との確信に北川さんは支えられているとのことです。
 言葉は命を宿し、人を救い、生かします。人の心の内で希望の光となります。北川さんは、主イエス・キリストの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との言葉に救われ、生かされました。
 私たちも、命の言葉、希望の光と出会うことができます。クリスマスは、神の「言」、神の愛である救い主イエス・キリストが、命の言葉、希望の光を携(たずさ)えて、私たち一人ひとりのもとにやって来てくださる時です。コロナ禍という「暗闇」(5節)に飲み込まれず、絶望という「暗闇」に飲み込まれず、また反対に人の力を過信する思い上がりという「暗闇」に飲み込まれずに、改めてこのアドヴェント、主イエス・キリストという「言」に心の耳を傾けて歩みましょう。

 

インスタグラム   http://www.instagram.com/sakadoizumichurch524/

坂戸いずみ教会礼拝説教集等  https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/