坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年12月6日待降節第2主日礼拝説教   「すべての人を照らす光」

聖 書 ヨハネによる福音書1章6~13節

説教者 山岡 創 牧師

1:6 神から遣(つか)わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証(あかし)をするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民(たみ)のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 

       「すべての人を照らす光」
 今年の6月から、私はほぼ毎朝、高麗川の土手を走っています。夏場は早朝でも明るかったのですが、今は走り始める頃はまだ真っ暗です。けれども、走り終わる6時半頃には、夜が明け、太陽が昇って来ます。時々、夜明けの写真を撮って、自分のインスタグラムにアップすることがありますが、夜明けの光は気持がいいですね。朝日を浴びると、何だか心も体も暖まって、元気が出るように感じます。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。この御言葉(みことば)から、私は、夜明けの朝日を、太陽の光を連想しました。太陽の光はまさに、すべての人を照らします。
 キリスト教がユダヤの片隅からローマ帝国へと広がっていった時代に、ローマの宗教として、太陽を神として礼拝する宗教がありました。その宗教では、昼間の時間が最短から長くなり始める冬至を、太陽が生まれた日として祝っていました。紀元4世紀頃、クリスチャンたちは“イエス・キリストこそ、私たちの太陽だ!”と言って、この太陽の誕生日をキリストの誕生日に替えました。これがどうもクリスマスの起源のようです。
 あながち思い違いとも言えません。イエス・キリストはすべての人を照らす光と言われていますから、言わば太陽のような存在だと言っても間違いではありません。神さまは善人にも悪人にも太陽を昇らせてくださる(マタイ6章45節)。キリストは、すべての人を等しく照らす太陽の光のような方として、この世においでになったのです。
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 けれども、太陽の光が私たちを照らさない時があります。それは曇りの日、もしくは

"夜"の時間です。私たちの心も「肉の欲」「人の欲」で曇っていたり、そのために光に背を向けていると、キリストという光は射(さ)しません。そういう人間の心の姿勢が、今日の聖書箇所では、「世は言を認めなかった」(10節)「言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(11節)という表現で言い表されています。
 先週の礼拝説教でお話しましたが、「言」とは天地を造られた神さまの意思です。神さまの“愛”です。それが人となってこの世に来られたのが主イエス・キリストです。
 ですから、主イエスは「自分の民」ユダヤ人の中にお生まれになり、長じて神さまのご意思が何であるか、神さまがどんなに人を愛しておられるかを、ユダヤ人に伝えようとしました。けれども、自分の信仰が正しいのだと、それにこだわる「欲」に凝(こ)り固まっていたユダヤ人たちは、主イエスの教えを認めず、主イエスを受け入れませんでした。だから、それらの人々に、主イエスという救いの光は射しませんでした。自分で自分の心にブラインドをかけ、背を向けていたからです。けれども、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と記(しる)されています。
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 今日の聖書箇所を黙想しながら、私は、ルカによる福音書19章に描かれている徴税人ザアカイの物語を思い起こしました。ザアカイ、あいつは、盗むな、貪(むさぼ)るな、という十戒の掟(おきて)をないがしろにして、法外な税を集め、それで私腹を肥やしている罪人だ。ユダヤ人なのにローマ帝国の狗(いぬ)(徴税人)になって、奴らに尻尾を振る汚れた人間だ。ザアカイは町の人々からそのように見なされ、軽蔑され、忌(い)み嫌われていました。
 ところが、主イエスは、エリコの町を通りかかった時、そんなザアカイのところに行って、「ザアカイ、‥‥今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)と声をかけられたのです。それは、すべての人を照らしたい、どんな人をも愛し、救いたいと願う神の意思、神の愛が人となり、行動となって現れたということにほかなりません。
 けれども、エリコの住人たちは、そういう主イエスの言動を受け入れることができませんでした。あいつは罪人だ。汚れた人間だ。神さまに選ばれ、神の国に迎えられる資格のないやつだ。それなのに、どうしてイエスはあんなやつの家に行き、食事をし、泊まったりするのだ!人々はつぶやきました。自分たちの小さな尺度で主イエスを計ったために、主イエスを認められず、神の愛を受け入れることができなかったのです。
 他方、ザアカイは、主イエスを喜んで受け入れました。信仰は心に、言葉に、行動に何らかの形で変化をもたらします。感激したザアカイは、こだわり続けた財産を、半分は貧しい人々に施し、だまし取った人には4倍にして返します、と宣言します。お金よりも大切なもの、幸せなものをザアカイは見つけたからです。
神さまの愛に心を暖められたザアカイは閉ざしていた心を開き、愛によって神さまに応えました。まるでイソップ童話の〈北風と太陽〉のようですね。旅人のコートを脱がせた方が勝ちと北風と太陽が勝負する話ですが、北風がどんなに強い風で吹きつけても旅人はコートを開きませんでした。太陽の光に包まれて、暖められて、旅人はコートを脱いだのです。周りから非難され、罪人だと責められている時、人は心を開きません。人として愛されて、ザアカイは“心のコート”を脱ぎ捨てることができたのです。
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その時、主イエスは言われました。「この人もアブラハムの子だ」(ルカ19章9節)と。それは、「神の子」(12節)だと言ったのと同じです。主イエスは、ご自分を信じて受け入れたザアカイを「神の子」と認めた、「神の子となる資格を与えた」(12節)のです。
 エリコの町の人々は、自分たちこそ、主イエスから「泊まりたい」と言われるような人間のはずだ。神さまに愛される人間のはずだ、と思い込んでいました。なぜなら、自分たちはアブラハムの子孫、正当なユダヤ人の血筋(ちすじ)だったからです。また、神の掟を守り、信仰の実績を積んでいたからです。けれども、それは、血筋や自分の力、行いにこだわり、重んじる「肉の欲」「人の欲」(13節)です。
 神の救いとは、そうではありません。神さまに愛される「神の子」は、血筋でも、行いでもなく、「神によって」(13節)生まれるのです。言い換えれば、人間の力、人間の側の条件を誇(ほこ)るのではなく、神の愛によって、そして神の愛を信じ、愛によって応える信仰によって、「神の子」は生まれるのです。
 クリスマスなのに、生まれるのは“私たち”です。クリスマスは神の子イエス・キリストが生まれた時なのに、最後の13節には、信じる人々が、信じる私たちが生まれたと書かれています。あれ?クリスマスって私たちの誕生日なの?と不思議に思います。
 でも、クリスマスとは、実はそういう日なのです。イエスを救い主キリストと信じる。キリストの愛の光に照らされて、キリストが私たちの心に宿る。その時、私たち自身が神さまに愛される“神の子”になる。それが本当の意味でのクリスマスなのです。

 

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