坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2020年12月13日待降節第3主日礼拝説教      「独り子である神が来た!」

聖 書 ヨハネによる福音書1章14~18節

説教者 山岡 創 牧師

 

1:14 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独(ひと)り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更(さら)に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

       「独り子である神が来た!」
 皆さんは、声を張り上げること、張り上げたくなることがありますか?声を張り上げたくなるのは、だいたい3つの場合だと思われます。
 一つは、怒りがこみ上げた時です。NHKの新たな連続テレビ小説〈おちょやん〉が始まりました。大正時代の大阪を舞台に、上方女優の浪花千栄子(なにわ・ちえこ)を題材にして、貧しい家庭に生まれた竹井千代が女優を目指す生涯を描いたものです。家庭内にいざこざがあって、9歳の千代は家から出され、道頓堀(どうとんぼり)の芝居茶屋〈岡安(おかやす)〉で奉公人として働くことになります。その岡安の女将が、篠原涼子扮(ふん)する岡田シズ。ある時、むしゃくしゃした千代が、洗濯中にベランダの上から放り投げたふんどしが、瓦屋根をコロコロと転がって、下にいたお店のお得意さまの頭に当たります。そのため女将の篠原涼子が店の奥に向かって、“千代~!”と声を張り上げます。何とも張りがあって、ドスが利いていて、いい声だと感じてしまいましたが、怒りを発した時、人は声を張り上げます。
 二つ目は、自分の気持を発散したい時です。皆さんはカラオケに歌いに行くことがありますか?若者で好きな人は、結構よく行くと思います。私も数えるぐらいしか行ったことはありませんが、自分の好きな歌を大きな声で歌うと、何とも気持がよい。鬱積(うっせき)していた気持が発散されます。もちろん、単純に好きだから行くことも多いでしょうが、カラオケでなくとも、この礼拝堂で独り、大きな声で歌うだけでも気持が良くなります。気持を発散したい時、私たちは歌ったり、大声を上げたりして、声を張り上げます。
 そして三つ目は、感動した時です。何かに感動した時、私たちは、だれかにそれを伝えたくなります。思わず口角(こうかく)、泡を飛ばし、声を張り上げて、一生懸命に話している時があるでしょう。伝えたいという感動は、気持をあふれさせます。その結果、声を張り上げていることが少なからずあると思います。
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 ヨハネは、人となった「言」(14節)イエス・キリストのことを、声を張り上げて証(あか)ししました。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(15節)
 ヨハネは、主イエスに感動したのに違いありません。ちなみに、このヨハネは、この福音書を描いたヨハネではなく、ヨルダン川で洗礼運動を起こしたヨハネです。神さまに選ばれ、祝福を約束されたユダヤ人だからと、その血筋にあぐらをかいていたら、あなたがたは滅びる。自分の罪を悔い改めなさい。そのしるしとして洗礼を受け、神の民として生まれ変わりなさい。そう言って、ヨハネは人々に洗礼を授けました。
 主イエスも、このヨハネのもとにやって来て洗礼をお受けになったのです。そういう関係から言えば、ヨハネは主イエスの“師(匠)(ししょう)”とも言えるわけで、その意味では「先に」いたのは、むしろヨハネです。それなのに、ヨハネはその後、主イエスのことを「わたしよりも先におられた」と証しするのです。それはどうしてでしょうか?
 主イエスが神の「言」(1節他)として天地創造の以前からおられたから、というだけではありません。ヨハネが「先に」と証しするのは、主イエスが「律法」という掟(おきて)を打ち破って、「恵みと真理」(17節)を表わしたお方だからではないでしょうか。
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 律法はかつて「モーセを通して」(17節)、ユダヤ人に与えられた神の掟です。神の祝福を受け継ぐための、守るべき約束でした。けれども、それはいつの間にか、そうしなければならない義務となり、人を縛る“鎖”のようになっていきました。それだけでなく、掟を守る人と守れない人を選り分ける基準となり、守れる人が守れない人を差別し、非難する根拠となっていきました。だれも、その息苦しさを打ち破ることができない。ヨハネでさえも、その基準を変えることができなかった。千年以上、民族に染みついて来た伝統と精神を変えることは、とてもとても難しかったのです。
 けれども、そこに“革命”を起こしたのが主イエスでした。神さまは、私たちを掟によって裁く恐ろしい裁判官ではなく、私たちを愛する“父親”だ。神は、正しい者だけでなく、それ以上に罪人を招かれるお方なのだ。なぜなら、父なる神はすべての人を愛しておられるからだ。すべての人を救いたいと考えておられるからだ。だから、律法を守れなくても、周(まわり)りの人から“ダメ人間”と非難されるような人でも、神さまは愛し、その愛によってお救いになるのだ。律法がすべて、行いがすべて、人の条件がすべてという価値観を捨てて、悔い改めて、この福音を信じなさい。それこそ主イエスは声を張り上げて伝えました。
 これこそが「恵みと真理」(14、17節)です。神さまの意思、神さまの願いです。私たちは、エデンの園で神さまに背き、罪を犯したアダムとエヴァと同じように“罪人”なのです。嘘をつき、隠ぺいし、責任転嫁し、自己弁護をする、自己本位な罪人です。
 それでも、神さまは“父”として、私たちを、この“私”を愛してくださる。何も持っていなくても、罪があっても、欠けていても、正しく生きられなくても、愛してくださり、気づかせ、立ち直らせ、生かしてくださる。待ち続けてくださる。こんなこと、だれにもできない。人にはできない。神さまでなければできない。
 だれにもできないことを成し遂げたからこそ、それは「栄光」(14節)と言われます。究極の“愛”による「栄光」です。そして、神さまでなければできない救いの御業(みわざ)を現わしたからこそ、主イエス・キリストは“神”だと言われるのです。神の意思となって、その意思を示したからこそ、「独り子である神」と信じられるようになったのです。
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 洗礼者ヨハネは、この「恵みと真理」に感動した、主イエスに感動したのではないでしょうか。だからこそ、声を張り上げて証しし、伝えたのではないでしょうか。
 そして私たちも、主イエスの「恵みと真理」に感動したなら、主イエスの愛によって救われていると感じているなら、きっと声を張り上げて証しするでしょう。徴税人ザアカイも、マグダラのマリアも、サマリアの女も、ペトロ等(など)弟子たちも皆、感動したのです。そして感動した者は、この福音書の最後の章に描かれているトマスのように、声を張り上げて言うでしょう。主イエスこそ「独り子である神」、私の神、私の救い主だ、と。
 私たちは恥ずかしがり屋で、口下手(くちべた)かも知れませんから、人前で、声を張り上げて証しするなんてことは難しいかも知れません。けれども、心の中には、あふれるばかりの喜びと感謝と、その証しを持っているクリスチャンでありたいものです。
 そして、一つだけ、私たちが憚(はばか)ることなく声を張り上げられる場所があります。それは教会です。礼拝です。もうすぐクリスマス、独り子なる神である主イエス・キリストが「恵みと真理」を携(たずさ)えて、愛を届けるために、おいでになります。その主イエスを、心の声を張り上げて、思い切り賛美するクリスマスの時としましょう。

 

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