坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年1月3日 主日礼拝説教       「人間より神に従う」

聖 書 使徒言行録5章27~32節
説教者 山岡 創牧師


5:27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
5:28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」
5:29 ペトロとほかの使徒(しと)たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。
5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
5:31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦(ゆる)すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。
5:32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊(せいれい)も、このことを証ししておられます。」

 

          「人間より神に従う」
 〈コクリコ坂から〉というジブリのアニメーション映画を、皆さん、ご存じでしょうか?1963年、経済が発展する日本社会、横浜の高校を舞台に、高校生男女二人の関係と成長を描いたアニメです。主人公の松崎海は、同じ高校の1年先輩である風間俊に恋をします。ところが、海と俊は、戸籍上、兄妹であることが後になって分かります。朝鮮戦争で亡くなった海の父・雄一郎が、船乗り仲間に、養子として俊を譲ったのでした。戸惑いながらも、海は、医学留学から帰国した母親に、その関係を尋ねます。すると、母親は“俊は、太平洋戦争で戦死した父親の親友の子どもなの。生まれた時、母親も亡くなって、だれも引き取り手がなかったの。だから、雄一朗が引き取って、役所に自分の子どもとして届け出たの。でも、育てられなくて、船乗り仲間にもらってもらったのよ”と告げます。それを聞いた海の目から、思わず涙があふれ、その気持をハッと察した母親が海を抱きしめるシーンに、思わずホッコリします。
 さて、このアニメの中で、文化部の部室棟であるカルチェラタンという建物が取り壊されるという話が出て来ます。文化部員たちは猛反対し、取り壊しを進める理事会の長・徳丸に訴えます。その真剣さに感じ、徳丸理事長がカルチェラタンの見学にやって来ます。その時、文化部員たちが合唱する歌があります。〈紺色のうねりが〉という歌です。
  紺色のうねりが飲み尽す日が来ても 水平線に君は没するなかれ
  我らは山岳の峰々となり 未来から吹く風に頭(こうべ)を上げよう
  紺色のうねりが飲み尽す日が来ても 水平線に君は没するなかれ
 この歌は、宮沢賢治が1927年に書いた〈生徒諸君に寄せる〉という、当時の中等学校への寄稿文が元になっているそうです。私の想像ですが、紺色のうねりとは、日本が軍国主義へと傾いて行く状況と思想のことでしょう。そのうねりに飲み込まれず、未来を見つめ、自主独立して生きよ、というメッセージではないでしょうか。そして、〈コクリコ坂から〉においては、カルチェラタンを取り壊そうとする大人の都合や力に飲み込まれず、自分たちの願いと活動を守る、という決意が込められているように思います。
 紺色のうねりが飲み尽す日が来ても 水平線に君は没するなかれ。私は、今日の聖書の言葉を黙想しながら、この言葉が、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)という御(み)言葉と重なり合うように感じました。
                *
 主イエスとその弟子、その使徒たちを飲み尽そうとする紺色のうねりがありました。大祭司とサドカイ派の人々です。彼らは既に一度、神殿の境内で主イエス・キリストを宣(の)べ伝えているペトロとヨハネを捕らえ、牢に入れ、最高法院で尋問し、脅したことがありました。その時も二人は、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(4章19節)と答え、その後も宣教を続けました。大祭司とサドカイ派は様子を見ていましたが、その後も民衆があまりにも使徒たちを称賛するので、「ねたみ」(18節)のために使徒たちを捕らえ、再び最高法院で尋問し、宣教禁止を言い渡そうとしたのです。
 最高法院。かつて主イエスに死刑判決を下したユダヤ人の議会です。最高権力を持っています。そのメンバーには大祭司やサドカイ派の人間が多数入っていました。公正な裁判が行われるわけではありません。彼らは、形だけの裁判をし、表面上の理由をでっち上げて、主イエスに死刑の判決を下したのです。自分たちにとって不都合なものは裁いて葬る。彼らは自分たちに罪の「責任」(28節)があるなどとは、これっぽっちも思っていません。おそらく主イエスの裁判の席にいたであろうペトロら弟子たちも、脅されて、恐れのあまり、今後、主イエスには関わりません、と誓わされたのです。
 その力を、嫌というほど知っている使徒たちが、しかし今回もまた、「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」と、前回以上にはっきりと答えているのです。その覚悟、その勇気、その力はどこから湧いてくるのでしょうか?
                  *
 その源泉は、「わたしたちはこの事実の証人であ(る)」(32節)という使徒たちの言葉から分かります。「証人」とは、その「事実」を直接見聞きし、体験した人間だということです。使徒たちは皆、十字架に架けられ、復活させられた主イエス・キリストを見たのです。主によって罪を赦され、救われたのです。その代表がペトロでした。
“知らない”。ペトロは3度誓いました。十字架刑の判決を受けた主イエスを見捨て、裏切ったのです。どん底です。最低です。にもかかわらず、復活した主イエスはペトロにもう一度、“わたしを愛するか?”と問いかけてくださいました。これが私たちの恋愛関係や人間関係だったら、とっくに破綻(はたん)、セカンド・チャンスなんてまずないでしょう。ところが、ペトロはもう一度“愛します”と答えて、主イエスとの関係をやり直すチャンスをいただいたのです。自分の意思で答え、勇気と愛をもって生きる道へと導かれたのです。その救いの「事実」を、ペトロは直接見聞きした。一度は紺色のうねりに飲み込まれたペトロが、限りなく深く、豊かなキリストの愛に飲み込まれたのです。その愛を味わったら、キリストに従わずにはいられない。神に従わずにはいられないのです。
 私たちが、力のある人間を恐れず、おもねらず、自主独立して、自分を曲げず、自由に生きるということは、神に従って生きるということにほかなりません。それは、人間以上に神を恐れ、神におもねって“従わねばならない”と縛(しば)られて生きることではありません。どんなに罪深く、欠けの多い、愛のない“私”であっても赦し、愛してくださる。その神の愛に包まれて、感動し、感謝して、“イエス様ならどうするか?
何と言うか?”と、主の愛を自分の基準にして生きようとする願い、それが主に従うということです。愛に心を打たれ、愛に立つ時、私たちは何ものにも縛られません。
                 *
 今を生きる私たちの周りにも、私たちを飲みつくそうとする人の力、社会の力といううねりがあります。けれども、私たちにとって最も大きな紺色のうねりとは自分自身かも知れません。人間の力を恐れ、おもねって従おうとする“自分”の内にある弱さといううねり。あるいは、自分がいちばん正しいと思い込み、神さまの御心(みこころ)は何かと尋ね求めず、大祭司やサドカイ派のように、自分の独善的な考えに従おうとする“自分”の内にある自己正当化といううねりなのかも知れません。その内なる“罪”のうねりに飲み込まれず、神の愛に従い、自由に、柔軟に、謙虚に生きる人間でありたいと願います。

 

インスタグラム   http://www.instagram.com/sakadoizumichurch524/

坂戸いずみ教会礼拝説教集等  https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P  http://sakadoizumi.holy.jp/