坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年1月10日 主日礼拝説教        「人間の計画と神の計画」

聖 書 使徒言行録5章33~42節
説教者 山岡 創牧師

5:33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒(しと)たちを殺そうと考えた。
5:34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法(りっぽう)の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、
5:35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。
5:36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
5:37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
5:40 使徒たちを呼び入れて鞭(むち)で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。
5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱(はずかし)めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
5:42 毎日、神殿の境内(けいだい)や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音(ふくいん)を告げ知らせていた。


                              「人間の計画と神の計画」
 1月6日、アメリカの連邦議会議事堂が占拠されました。その日は、次期大統領選挙の結果を確認し、確定する上下両院の合同会議が行われていました。けれども、バイデン氏の当選を不法選挙だと非難して認めようとしないトランプ大統領が当日、支持者たちに演説し、議事堂内で抗議することを求めたといいます。そのため、暴徒と化した支持者たちが乱入し、議会は中断されました。議員たちは避難して、特にけが人はなかったようですが、この事件で5名が死亡、3人は脳梗塞や心臓発作だったようですが、1名は乱入した女性が警察官に撃たれて、もう一人は支持者たちによって負傷させられた警察官が、その後、病院で亡くなったと報道されていました。前代未聞の大事件です。
 とは言え、日本でもかつて国会議事堂への乱入事件がありました。1960年、アメリカ軍が日本を守ることを取り決めた日米安全保障条約が可決された時、これに反対する学生たちが首相官邸に突入したり、国会議事堂に乱入したりした、といいます。
 社会のことばかり言えません。学生紛争の嵐の中で、教会も対立事件が起こりました。1970年、大阪で開かれた万国博覧会にキリスト教館を出すか出さないかで対立が起こりました。私の出身校である東京神学大学では、寮に立てこもる反対派の学生たちが、教授会と対立し、機動隊に排除されました。また、1971年の東京教区総会では、乱闘、流血事件が起こり、その後、東京教区総会は19年間開かれなかったといいます。
 どうしてこのような争い、愛と平和が失われた悲しい事態が起こるのでしょうか?どこに争いのスイッチがあり、それが入ってしまうのでしょうか?
一人ひとりが持っている思想、価値観、主張、考えを一概に非難したり、否定することはできません。けれども、私たちは、自分とは異なる相手に出会うと、対立することがあります。話し合い、同意点を見つけることができず、反対し、否定し、争うことがあります。それは、自分がいちばん正しいと思い込んで、それを押し通そうとするからでしょう。自分が真剣で、一生懸命なもの、思い入れを強く持っているものほど、そうなる傾向があります。“これが正しい”“自分が正しい”と思う心。そこに私たちの争いのスイッチがあります。
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 大祭司とサドカイ派の人々もそうでした。彼らは、最高法院で主イエスの教えと行動を否定し、罪をでっち上げて裁き、処刑しました。そして今度は、主イエスを救い主キリストとして宣(の)べ伝える使徒たちを捕らえ、尋問し、宣教禁止を強制しようとしたのです。けれども、使徒たちは「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」(29節)と言って、自分たちは主イエスの救いを体験した「証人」(32節)であり、宣べ伝えずにはいられないと反論しました。
 それを聞いた議員たち、特に大祭司とサドカイ派でしょう、「激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」(33節)といいます。主イエスの時と同じです。自分たちの信仰にぶつかるだけでなく、立場とか面子とかもあるのでしょうが、どうしてすぐに“殺して排除する”という思考になってしまうのか、とても不思議です。神さまを信じて生きている人間として、あり得ないような思考の飛躍(ひやく)だと感じるのです。
 けれども、大祭司やサドカイ派にすれば、神さまを侮辱(ぶじょく)し、冒瀆(ぼうとく)した者を、神さまのために裁く、という建前なのです。いや、それを建前だとさえ気づいていない。本当は、自分たちの信仰の思想、立場、面子(めんつ)と対立するから、癇(しゃく)に障(さわ)るから、そしてそのままにしておけば民衆の支持が自分たちから離れ、使徒たちの方にいよいよ行ってしまうから、というのが本音なのです。
 “これが正しい” “自分が正しい”。そう思い込む時、私たちは、殺意とまではいかなくとも、相手と対立し、否定し、排除したくなります。認めること、受け入れること、協調することができなくなります。愛することができなくなります。
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 けれども、その時、最高法院議員の一人であるガマリエルが発言しました。彼は、テウダやガリラヤのユダが反乱を起こし、滅んでいったことを例に挙(あ)げて言います。
「‥放っておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」(38~39節)。
 この発言によって、大祭司やサドカイ派はその意見に従い、殺意を捨てました。もし
かしたら神に逆らう者になるかも知れない。信仰者にとって、この発想は大事です。
それは、自分の考えや主張は正しくないのかも知れない。自分の「計画」と行動は間違っているのかも知れない、と思い直すことです。つまり、自分を“絶対者”にしないということ、絶対者は神さまだけであって、私たちは皆、一人ひとり、その神さまに造られた、お互いに相対的な存在だということ。しかも、一人ひとりが神さまに愛されて造られているという恵みを思い起こすということです。そう考えることで、私たちは相手を否定せず、認め、受け入れ、協調し、愛することができるようになります。
1月8日(金)の夜、この教会で遠くの地に離れている青年や出身牧師を中心に、ズームを使って御言葉(みことば)の分かち合いをしました。ルカ福音書6章27節以下〈敵を愛しなさい〉というテーマでした。“敵”って何だろう?誰のことだろう?と一緒に考えながら、敵と思うような人はいないけれど、苦手(にがて)な人、考えの合わない人はいる。悪口を言われたり、妬(ねた)まれたり、そんな人もいる。でも、自分もその人も、神さまが愛して造った人だ。神さまのように愛そう。自分も憐れみ深くなろう。そうすれば、相手を認め、受け入れ、愛することができる。いつもそうはいかないかも知れないけれど、生涯求めていく信仰の課題だと思う。そんな内容が分かち合われました。
人間の計画や行動、自分の計画や行動を絶対化して、正当化して、人と対立するのではなく、神さまの計画、神さまの御心(みこころ)を思って、自分を吟味(ぎんみ)し、謙虚に、柔軟に、愛を持って生きる。相手のせいにせず、神に造られた人間としての“自分”を生きる。それがきっと神さまの御心、神さまのご計画に適(かな)うに違いありません。
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 使徒たちは、決して大祭司やサドカイ派を攻撃しようとはしていません。ただ、主イエスの「証人」として生きようとしているだけです。そういう生き方は「辱めを受ける」(41節)こともあるかも知れません。非難され、誤解され、嫌われるかも知れません。自分を貫くことは大変です。でも、決して相手を責めない。それができたら、まさに神さまの“愛と計画”に従って生きているのではないでしょうか。

 

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