坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年1月31日 主日礼拝説教       「わたしが示す場所へ」

聖 書 使徒言行録7章1~8節
説教者 山岡 創牧師

◆ステファノの説教
7:1 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。
7:2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、
7:3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。
7:4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、
7:5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。
7:6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐(しいたげ)げられる。』
7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
7:8 そして、神はアブラハムと割礼(かつれい)による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。

                                      「わたしが示す場所へ」
 「皆さん、聞いてください」(1節)。こう言って、ステファノは語り始めます。彼は今、最高法院の被告人席に立たされています。海外帰りのユダヤ人たちが、ステファノに対立し、彼を捕らえて最高法院に引いて行き、偽証人(ぎしょうにん)まで立てて、ステファノを有罪にしようとしたのです。そのような人々に向かって、ステファノは、「兄弟であり父である皆さん」(1節)と、尊敬と親愛の気持を込めて呼びかけ、証言をし始めます。
 ステファノは、いきなり主イエス・キリストのことを証しするのではなく、ユダヤ人に関わりのある歴史を、そのルーツから語り始めます。ユダヤ人のルーツ、それはアブラハムという人物です。アブラハムは“ユダヤ人の父”と呼ばれ、大変尊敬されました。それは、彼が、主である神さまに選ばれ、すべての人の「祝福の源」(創世記12章2節)となり、その祝福を子孫であるユダヤ人に継がせると約束された人物だったからです。アブラハムの歩みについては、旧約聖書・創世記11章27節以降に記されています。
けれども、「あなたの親族と土地を離れ、わたしが示す土地に行け」(3節)と命じられ、それに従う人生は「祝福」という言葉からイメージされるような喜びと幸せに満ちあふれたものではなく、むしろ苦しみと困難の連続であったと思われます。そのような人生において、アブラハムは何を思いながら生きたのだろうか?と考えさせられます。
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 話は変わりますが、NHKの連続テレビ小説〈おちょやん〉を、私は楽しみに見ています。上方女優の浪花千栄子を題材に、戦前から戦後の大阪で、貧しい家庭に生まれた少女・竹井千代が女優を目指す生涯を描いたものです。
 この話の中に、千代の父親役で、竹井テルヲという人物が登場します。この父親がひどい。妻を早くに亡くした寂しさがあるとは言え、昼間から飲んだくれて、家事はすべて幼い千代にさせる。若い女性を“新しい母ちゃんだ”と言って連れて来て、その女の要求で、千代を口減らしのために大阪の芝居茶屋に奉公に出す。その8年後、ばくちで借金まみれになって千代の前に現れ、ヤクザ者に追われて千代を売り飛ばそうとします。結局、茶屋(ちゃや)の女将(おかみ)に借金を肩代わりしてもらうのですが、しかし、それだけでは終わらず、数年後、千代が女優を目指してがんばっている鶴亀撮影所に現れます。調子のいいことを言いながら、今回も借金で取り立てに追われ、千代の通帳を盗もうとします。そして見つかると、開き直り、結局その通帳をもらって“おおきに。さすがわしの娘や”と謝りもせずに出て行くのです。私は、テルヲが登場するたびに、腹が立ってしょうがない。(千代が“このアホンダラ!”と怒鳴る気持がよく分かります)
 テルヲの何に腹が立つかと言えば、自分のしたことを反省しない。謝らない。人の親切にすぐ調子に乗る。そして、うまくいかなければ言い訳をする。環境のせいにし、周りのせいにするところです。
 人は、自分の人生がうまくいかないと、つい環境のせいにし、周りのせいにすることがあります。自分自身と向き合わず、自分の人生を背負わずに逃避(とうひ)しようとします。
私は、今日の聖書箇所を黙想しながら、ふと〈おちょやん〉を思い出しまして、「わたしが示す土地に行け」と神さまに召し出されたアブラハムは、周りのせいだ、神さまのせいだと言いたくならなかったのだろうか?そんなことを考えさせられたのです。
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 アブラハムは、「わたしが示す土地に行け」(3節)と命じられ、未知の場所へと出発しました。慣れ親しんだ地域や文化、築き上げてきた人間関係を捨てて、全く知らない土地に飛び出して行くのです。“はい、わかりました!”と簡単に決断できるような問題ではありません。現代人である私たちでさえ、新しい土地に行ったら、慣れるのに時間がかかります。その土地に住む人に、“よそ者”と見なされるでしょう。“この土地の人”と認知してもらえるようになるまでには、かなりの年月と人間関係の積み重ねが必要だと思います。ましてや紀元前の時代に、他民族の土地に出て行くのです。そこには、「一歩の幅の土地さえも」(5節)なく、それどころか命の保証さえないのです。
そんなところに移り住んだら、うまく行かないこと、苦悩することが少なからずあったに違いありません。実際、一緒に行った親族のロトが財産もろとも侵略者に奪い去られ、アブラハムはその救出に苦心しました。その地に飢饉(ききん)が起こった時、土地を持たないアブラハムはエジプトに避難するしかありませんでした。そして、殺されないために妻サラを妹だと偽(いつわ)って入国しましたが、そのために妻がエジプト王のハーレムに連れて行かれてしまいました。苦労の連続とストレスのためか、なかなか子どもには恵まれませんでした。“こんな土地に来なければよかった。故郷に留まっていればよかった。神さまのせいだ。環境のせいだ。周りのせいだ”。そう言って責任転嫁し、文句を言ったとしても、決して不思議ではありません。創世記を読むと、アブラハムが不信仰に陥りそうになっているシーンがしばしば出て来ます。
 けれども、その度に神さまはアブラハムに言葉をかけ、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)と言われた約束を思い出させます。その言葉にアブラハムは励まされ、示された土地で、「この場所」(7節)で、神さまが共にいてくださることを信じて生きていくのです。そして晩年、アブラハムは長男を与えられ、その名をイサクと名付けました。その名は“笑い”“笑顔”という意味でした。きっと自分の喜びを表したのでしょう。
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 環境のせいにせず、周りのせいにせず、神さまが示された土地で、置いてくださった場所を引き受けて生きていく。簡単なことではありませんが、それ以外に、幸せに生きる道はないのではないでしょうか。ラインホールド・ニーバーの詩を思い起こします。


神が置いてくださったところで咲きなさい。
仕方がないとあきらめてではなく、「咲く」のです。
  「咲く」ということは、自分がしあわせに生き、他人もしあわせにすることです。
  「咲く」ということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、
  私はしあわせなのだということを、示して生きることです。
  神が、ここに置いてくださった。それはすばらしいことであり、
ありがたいことだと、あなたのすべてが語っていることなのです。
  置かれているところで精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。
  神が置いてくださったところで咲きなさい。
ラインホールド・ニーバー(渡辺和子・訳)


 苦しみがあり、迷いもあります。でも、神が置いてくださったところで花を咲かせる心で生きるなら、そこにはきっと人生の祝福があるに違いありません。

 

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