坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年2月7日 主日礼拝説教         「苦悩の中にある神の計画」

聖 書 使徒言行録7章9~16節

説教者 山岡 創 牧師

7:9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授(さず)けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
7:14 そこで、ヨセフは人を遣(つか)わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
7:15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
7:16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬(ほうむ)られました。

      「苦悩の中にある神の計画」
 エルサレム神殿の境内で、救い主イエス・キリストを宣(の)べ伝え、反対するユダヤ人たちに捕らえられ、最高法院の被告人席に立たされたステファノ。彼は、「天使の顔」(6章15節)のような穏(おだ)やかさで、自分を捕らえた人たちに「兄弟であり父である皆さん」(1節)と親愛の情を込めて語りかけます。ステファノは、ユダヤ人の歴史を、そのルーツであるアブラハムから語り始めます。人間の救いのために“祝福の源”“救いのモデル”として選ばれたアブラハム。この選びと約束は、イサクへ、ヤコブへ、そしてヤコブの12人の息子たちへと受け継がれていきました。
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 ヤコブの息子ヨセフ。3年前に夏のキャンプで中高生、青年たちと、ヨセフ物語を劇にして演じたことを思い出します。彼の人生は波乱万丈で、劇的です。ヨセフはヤコブの11番目の息子でした。兄さんたちとは少し歳が離れており、まだ弟は生まれていません。つまり彼は末っ子です。ヤコブは、ヨセフを溺愛したようです。甘やかされた末っ子にありがちですが、ヨセフは、我がままで、空気の読めない人間に育ちました。兄さんたちが自分にひれ伏す夢を見たと、平気で兄さんたちに言ってしまうのです。万事につけそんな調子のヨセフのことを、兄さんたちがねたみ、憎まないはずがありません。
 ある時、家を遠く離れて羊の群れを遊牧している兄さんたちのもとに、ヨセフが一人で、安否を尋ねにやって来ました。日ごろの恨みを晴らす“チャンス到来!”と思った兄さんたちは、ヨセフを捕らえ、貿易の旅をしている商人にヨセフを売ります。そして、父ヤコブには、ヨセフは野原で野獣に食い殺されました、と報告をするのです。
 一方、エジプトに連れて行かれたヨセフですが、最初は兄さんたちを恨み、この事態を受け止めることができなかったに違いありません。けれども、観念したのか、彼は、奴隷として売られたエジプトの役人の家で、落ち着いて働き、執事のように用いられるようになります。そんな矢先、ヨセフはその家で濡れ衣を着せられ、主人の怒りを買い、冤罪(えんざい)で牢屋に入れられ、かなりの年数を牢屋の中で過ごすことになります。
 さて、そのようにヨセフが牢屋で過ごしていた時、エジプト王が不思議な夢を見ます。だれもその夢を解き明かすことができません。その時、かつて牢屋の中でヨセフに夢を解いてもらった一人の役人が、ヨセフのことを思い出し、エジプト王に紹介します。呼び出されたヨセフは、王の見た夢は、今後7年間の豊作と、それに続く7年間の飢饉(ききん)を予測した予知夢(よちむ)だと解き明かし、飢饉のために穀物を蓄えておく対策まで示しました。その知恵に感心したエジプト王は、ヨセフに、その対策を担当させ、大臣に任命するのです。ヨセフの人生に、夢のようなサクセス・ストーリーが、奴隷から大臣へという“大々逆転劇”が起こったのです。普通ならこれだけで、神さま、大感謝!というハッピー・エンド・ストーリーです。けれども、ヨセフに対する神さまのご計画の真髄は、これで終わりではありませんでした。まだ、その途中だったのです。
 やがてエジプトだけでなく、その周りの国々も飢饉に襲われます。海外から多くの人々がエジプトに穀物を買いにやって来ます。その中に、ヨセフの兄さんたちの姿もありました。ヨセフは一目で、それと気づきます。けれども、素知らぬ顔で、兄さんたちを試し、観察します。そして、冤罪の工作をし、罪をでっち上げて、ヨセフの後に生まれた末っ子を罰として奴隷にする、と宣言します。それを聞いた兄さんたちは仰天して、“そんなことをされたら、父が悲しみのあまり死んでしまいます!”と訴え、ある者は、自分が身代りになる、とまで言い始めました。その情にほだされて、ヨセフは泣きながら、自分は弟のヨセフだと身を明かすのです。そして、ヨセフは言います。「‥しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔(く)やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。‥‥神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です‥」(創世記45章5~8節)
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 先週の礼拝説教で、人は、自分の人生がうまくいかないと、つい環境のせいにし、周り人のせいにすることがある。自分自身と向き合わず、自分の人生を背負わずに逃げようとする、とお話しました。けれども、ヨセフはまさに兄さんたちの手でエジプトに売られ、奴隷の苦しみを味わう羽目になったわけです。兄さんたちのせいです。周りの人のせいです。だから、ヨセフがそう思って、兄さんたちを恨(うら)んだとしても当然です。
 けれども、ヨセフは、役人の家で、牢屋で、また王の下で、精一杯よく働きました。そして、思いがけない成り行きでエジプトの農業大臣となり、飢饉の中で兄さんたちと再会した。その兄さんたちが、決して非情な悪人ではなく、弟を思い、親を思う人間だと知ることができた。その出来事を通して、ヨセフの目が、心が、神さまに向かって開かれたのです。わたしをエジプトに送ったのは、あなたたちであって、あなたたちではない。神です。神のご計画です。私が苦しみに遭(あ)ったのは、家族の命を大いなる救いへと至らせるためだった、と。これは理屈では分かりません。理屈を超えて、神を信じる人が、人生の苦しみとその不思議さに出会う時、自分が計画し、意図(いと)したのではない神さまの導きに、自分の人生に与えられた意味に、目が開かれるのです。そして、人生のその場所が、神さまに示された場所だと、置かれたところだと受け止めるのです。
 “神が置いてくださったところで咲きなさい”。先週の礼拝説教で、このラインホールド・ニーバーの詩を引用しました。一昨日の金曜日に、この説教について、グループ・ラインのテレビ電話で分かち合いをしました。その中で、神さまはアブラハムに、「わたしが示す土地に行け」(3節)と言われたが、その途中でハランという町に住んだ。そのことを自分にも当てはめてみると、自分が今居る環境、“人生の場所”は、まだその途中なのかも知れない、という感想がありました。私は、その言葉にとても感じるところがありまして、途中ということにも色々な意味がある。環境のせいにし、周りのせいにし、神さまのせいにしてしまうのも、まだ、神さまが示す救いに至る途中なのかも知れない。そうだとすれば、そのように何かのせいにすることも、単純に否定すべきことではなく、ある意味で必要な過程なのかも知れない。そう感じました。
 私たちはきっと、そう簡単には、自分が置かれた環境を引き受けて、意味を見出し、花を咲かせるような生き方はできないと思うのです。でも、主イエス・キリストの十字架刑という苦難が、私たちの罪を赦し、神の愛に立ち帰らせる救いだったと、神のご計画を信じている私たちです。いつの日か、私をここへ遣わしたのは神です、と言える日が、私の人生にも神さまのご計画があった、と心から思える日が来たらいいなぁ、それは救いだなぁ、と思います。その日を信じ、祈り求めて進みたいと願います。

 

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