坂 戸 い ず み 教 会 礼 拝 説 教 集

<キリストの愛とともに歩もう>                          イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年2月21日 受難節第1主日礼拝説教      「誘惑劇場」

聖 書 マタイによる福音書4章1~11節

説教者 山岡 創 牧師

◆誘惑を受ける

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚(おぼ)えられた。
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主(しゅ)を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
          「誘惑劇場」
 誘惑劇場。変な説教題だなぁ、と思った人もいるでしょうし、おもしろい題だなぁ、と感じた人もおられるでしょう。私は、今日の聖書箇所(かしょ)を黙想しながら、ふと、この話、演劇にできそうだと思いました。荒れ野、神殿の屋根の上、そして高い山と、3つの場面、舞台を設定できます。そして、この話を膨らませて、せりふを考え、どんなシナリオを作るか。ミュージカル風にもできそうですし、喜劇にもできそうです。私が青年だった頃、聖書の物語を喜劇にして、他の青年たちと一緒に、クリスマスやイースターの愛餐会(あいさんかい)で何度も演じ、教会の方たちの笑いを取ったことを思い出します。
 誘惑劇場。私たち一人ひとりの人生は、ある意味で誘惑劇場、誘惑の舞台だと思い、この題を付けました。もちろん、目に見える姿で「悪魔」(1節)が出て来ることはありません。けれども、人生の様々な場面、日常の出来事を通して、苦しみや失敗だけでなく喜びや成功をも通して、物やお金を通して、人間関係を通して、私たちは誘惑を受けます。不幸へ、破滅へ、絶望へといざなわれるのです。そこに悪魔は潜んでいます。
 『ナルニア国物語』の作者として有名なC.S.ルイスという人が、『悪魔の手紙』という著書を書いています。先輩の悪魔が、後輩であり甥でもある悪魔に送った31通の手紙です。その手紙を通して、先輩の悪魔は、どのようにすれば人を誘惑し、破滅へと誘うことができるかを、後輩の悪魔に指南していきます。おもしろい設定です。
 悪魔という象徴的な存在は決して姿を現しません。実態はありません。けれども、日常生活の中で、具体的に、私たちを不幸へ、破滅へ、絶望へといざなおうとします。そのような経験を、イエス様ご自身が味わっています。主イエスはどのようにして、悪魔の誘惑に抵抗し、克服されたのでしょうか。
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 今日の聖書箇所を読んで明らかなことは、主イエスが、悪魔の誘惑に対して3度とも、聖書の御言葉(みことば)によって打ち克っている、ということです。主イエスが取り上げている御言葉は3つとも旧約聖書・申命記に出てくる言葉です。もちろん、申命記でなければならない、ということではありません。主イエスは、聖書の言葉、神の言葉を、自分の人生の拠り所(よりどころ)とし、生き方のガイドとして歩んでいるのです。
 先週の礼拝説教で、“思い立ったら、まず祈り”というのが私たちクリスチャンの格言だ、生き方だとお話しました。自分が何かを思い立った時、即実行、即行動するのではなく、まず神さまに祈る。神さまが自分に何を求めているか、祈りの中でその答えを模索してから判断し、行動する。そうすれば、自分の行動に確信が持つことができる。たとえ失敗したとしても、祈って取った行動の結果なのだから、これで良しと納得できるし、神さまが次へつなげてくださると信じることができる、とお話しました。
 その時、私たちは“神の言葉”を意識するでしょう。日常生活の中で祈る時、聖書を読んで、祈ることを習慣にしている人がいます。短い時間で良い。ぜひ、皆さん一人ひとりがそうしてほしいと思います。聖書を読むのは、神さまが自分に何を求めているかを聴くためです。祈りが独りよがりにならないように、神さまから語りかけられ、私たちも語りかける対話をするためです。
 もちろん、その時に読んだ聖書の御言葉が即答えになることは、そうそうありません。でも、聖書を読んで祈ることを積み重ねていくと、神さまの思考回路がだんだん分かるようになってきます。神さまだったら、イエス様だったら、こうするだろうなぁ、ということが考えられるようになってきます。
聖書の御言葉、神の言葉を積み重ねて、濾過して、そこから抽出されるものは何か?それは“愛”です。神の愛の下で、神を愛し、人を愛することです。余談ですが、大地真央さんが料亭の女将さん役で登場し、渋滞に巻き込まれて文句を言っている従業員の横に止まり、“そこに愛はあるんか?”と問いかけるコマーシャルがあります。神の言葉、神の御心を尋ね求めるとは、まさに自分がそのように問われることです。そこに神への愛はあるんか?人を愛する愛はあるんか?その信仰的な思考が、私たちの決断の根拠となり、行動の指針となり、誘惑に打ち勝つ力になるのではないでしょうか。
 一つだけ、いや最も注意しなければならないのは、自分は御言葉に従っていると思っている時、そこに悪魔は潜んでいるかも知れない、ということです。神殿の屋根の上で、悪魔は主イエスを、詩編の御言葉で誘惑しようとしました。うまい方法です。自分は神の言葉、神の御心に従っていると確信している時、それは自分の勝手な思い込み、エゴイスティックな読み込みの場合があります。私たちにとって、信仰的な独善がいちばん怖い。気づかない。聖書を読んで、祈って考えた。でも、自分は間違っているかも知れない。そういう思考の余裕、柔軟性を持っていることも大事だと思います。
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 さて、最後の舞台、悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、自分を拝めば、この世の繁栄を「みんな与えよう」(9節)と誘惑してきます。これ、自分の中で何をいちばん大切にして生きるか、という価値観の問題だと思うのです。
 会報97号の巻頭言にも書きましたが、年末年始休みの時に、DVDを借りて来て、〈やまとなでしこ〉というドラマを見ました。2000年に放映された、松嶋菜々子、堤真一を主演とする恋愛ドラマで、お金か、愛かという価値観を、非常に極端に、コメディー・タッチで描いています。貧しい家庭で育った主人公の神野桜子(松嶋)は、お金さえあれば幸せになれると思い、金持ち男性との“玉の輿”結婚に執着します。そんな桜子が、貧しい魚屋の中原欧介(堤)と出会い、お金では買えない大切なものとは?と迷い、葛藤します。そして、幸せはお金で買えるのよ!とうそぶきながら、最後の最後に大金持ちの医者との結婚を棒に振り、数学研究のために渡米した中原を追いかけます。大学のキャンパスで欧介と再会した桜子は最高の笑顔で言います。“残念ながら、あなたといると、私、幸せなんです ”。
 幸せは、お金では買えない。愛は、この世の栄華では手に入らないと思うのです。愛がある時、愛し合う時、私たちの心はホッコリし、幸せを感じるのではないでしょうか。
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 主イエスが悪魔の誘惑に打ち勝つ武器とした御言葉。私は、御言葉はイコール“愛”だと思うのです。私たち一人ひとりに対する神さまの愛がギュッと詰まっています。それが読み取れるようになったら、感じられるようになったら、こっちの勝ちです。私たちは、愛してくれる相手と一緒にいたい。愛してくれる相手の言葉なら心に留める。その言葉で行動する。きっと神を愛し、人を愛して行動するようになる。私たちを不幸へ、破滅へ、絶望へいざなう誘惑に打ち勝つ力は御言葉です。神の愛です。

 

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