聖 書 マタイによる福音書12章22~32節
説教者 山岡 創 牧師
◆ベルゼブル論争
12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪(うちわ)で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛(しば)り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪(うば)い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆(ぼうとく)は、どんなものでも赦(ゆる)されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
「神の国はあなたのところに」
「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。もし私たちが、イエス様からこう言われたのだとしたら‥‥‥正直、ピンと来るでしょうか。神の国って何だろう?何となくは分かる気がする。説明されれば理解できるかも知れない。でも、あぁ、これだ!と感じて、自分の腹の中にストンと落ちない。どうしてでしょう?
たぶん「国」という考え方が、私たちには大き過ぎるのではないかと思います。例えば、私たちは実際に日本という国に住んでいます。日本って、どんな国ですか?と聞かれれば、何らかの説明はできるでしょう。でも、日本の国全体を、私たちは分かっているわけではありません。
*
私たちが日本という国に実感が持てるとしたら、それは身近な生活の範囲、自分の関わりの中でのことでしょう。自分が住んでいる街、自分が勤めている会社、通っている学校、利用している施設、属しているサークルや団体、関わっている人間、そして自分の家と家族‥‥‥そういう実生活を通して、私たちは、日本という国を実感しているのだと思います。日本は安全で、便利で、住みやすい国だ、とリアルに感じているのです。
「神の国」も、そのように考えれば、少し実感が湧いて来ます。自分の信仰生活とその関わりを考えてみればよいのです。そう言われて、まず真っ先にピンと来るのは、“教会”ではないでしょうか。私たちは、教会に来て、集って来る人たちと共に礼拝を守り、交わりを持ちます。互いに言葉を交わし、喜びや楽しみだけでなく、苦しみや悲しみを分かち合い、祈り合い、助け合います。私たちが、教会の礼拝と交わりに“愛”を感じているなら、そこに主イエスが語られる「神の国」のリアリティーがあるのです。
そのように互いに愛し合う交わりの姿を、私たちは“神の家族”と呼びます。神さまを父と呼び、主イエスを長男とする神の家族です。そして、家族が住み、共に生活する場所を“家”と言います。だから、神の国を実感するとは、家のような、家庭のような交わりを感じることにほかなりません。
“家”とは何でしょうか?以前にもお話したことがありますが、〈クロコダイル・ダンディー〉という映画があります。その第2作が1988年に放映されました。オーストラリアの原住民アボリジニであるミック・ダンディーは、アメリカのジャーナリストであるスー・チャールトンと恋をし、ニューヨークにやって来て、同棲生活を始めます。そんな矢先、スーが麻薬組織の犯罪の証拠を手にしたため、誘拐(ゆうかい)されてしまいます。ダンディーは単身、麻薬組織のアジトに乗り込み、アボリジニのスタイルで彼らと戦い、スーを助け出します。そのラスト・シーン、ダンディーはスーに、“さあ、家に帰ろう”と言います。すると、スーは“ここが私の家よ”と微笑んで、ダンディーを抱きしめます。
家とは何か?まさに、そうだと思うのです。自分を愛してくれる人、自分が愛する人、互いに愛し合える人と一緒にいるところ、その関係こそが、まさに“家”なのです。そして、神の愛を感じる関係こそ、私たちにとっての神の家、「神の国」にほかなりません。
*
主イエスは、目が見えず、口がきけない人を癒(いや)されました。当時、病気や障がいの原因の一つは、「悪霊」(22節)に取りつかれて起こると考えられていました。病気や障がいを癒すということは、その原因である悪霊を、その人の内側から追い出すということです。群衆は主イエスを讃(たた)えましたが、ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブル」(24節)の力で悪霊を追い出しているのだ、と悪口を言いました。けれども、主イエスは反論し、「神の霊で悪霊を追い出している」(28節)と言われました。そして、そこに「神の国は来ている」(28節)、と。そこに愛があるからです。病の人に寄り添う愛があるからです。主イエスとその人との愛の関係があるからです。
先週の礼拝で読んだ聖書箇所にも、悪魔(サタン)が登場しました。悪魔が主イエスを誘惑する話です(マタイ4章)。三度の誘惑に、主イエスは常に聖書の言葉によって対抗し、打ち克(か)ちました。その説教で、私は、御言葉はイコール“愛”だ。御言葉には神の愛がギュッと詰まっている。その愛を感じるようになったら、私たちの勝ちだ。私たちは自分を愛してくれる人と一緒にいたい。愛してくれる人の言葉を心に留めて生きる。愛を感じて、神を愛し、人を愛するようになる、とお話しました。
御言葉を通して、私たちが、神さまに愛されていると感じる時、悪魔は私たちの内にいることができず、愛の圧力によって逃げ出します。私たち現代人は、病や障がいがリアルに悪霊の働きだとは考えないでしょう。悪魔とか悪霊というのは象徴的なものです。けれども、私たちが人生の出来事や人間関係をネガティブに考えるとしたら、言い換えれば、“愛”のない考え方をするとすれば、神の愛を信じず、人を愛さない考え方をし、愛のない行動を取るとすれば、それは悪霊に住み込まれ、誘惑されていると、聖書的に表現しても良いでしょう。
主イエスは、そのように悪霊に住み込まれている“私”という「家」(29節)に押し入って、「強い人」(29節)である悪霊を愛の力で追い出し、愛によって私たちの心を自分のものとしてくださるのです。その時、私たちは、人生の出来事を、人間関係を、ポジティブに考えることができるようになります。喜びを見つけ、希望を見つけ、感謝と尊敬をもって、愛をもって生きられるようになります。その時、私たちの心の内には、「神の霊」(28節)が宿り、働いていると言うことができます。目には見えませんが、御言葉から神の愛を感じさせるもの、愛によって人を生かすのは、神の霊だと言えます。
*
愛のあるところ、愛を感じるところには「神の国」が来ており、「神の霊」が宿っています。それは言い換えれば、御言葉と愛が、自分の外にではなく、内にあるということです。知識ではなく、心と共にあるということです。主イエスの言葉が、心が、自分の心と一つになっているということです。そう感じているなら、私たちは自分の心に嘘をつけなくなります。だませなくなります。愛にもとる言葉や行動を取ることを、よしとできなくなります。もしそんなことをしたら、それは自分の心に対する冒涜です。自分の心を御言葉と一つにしている神の霊に対する冒涜です。それをやったら心が痛む。寝覚めが悪くなる。自分を赦せなくなる。それが、「聖霊に言い逆らう者は、‥‥赦されることがない」(32節)という言葉の真意ではなかろうかと思うのです。
愛にまっすぐに生きていきたい。かたくなな思いに駆られ、ネガティブな思考に陥り、聖霊に逆らい、愛から逸(そ)れることがあっても、悔い改めて神の愛のもとに立ち帰りたい。神の国は、私たちのそういう心の中に打ち建てられるものなのです。
インスタグラム http://www.instagram.com/sakadoizumichurch524/
坂戸いずみ教会礼拝説教集等 https://sakadoizumi.hatenablog.com/archive
日本キリスト教団 坂戸いずみ教会.H.P http://sakadoizumi.holy.jp/