坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  2021年7月25日 主日礼拝説教  「聖霊と洗礼」

聖   書 使徒言行録10章44~48節
説教者 山岡 創牧師

44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御(み)言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45割礼(かつれい)を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物(たまもの)が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46異邦人が異言(いげん)を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

 

聖霊と洗礼」
 坂戸いずみ教会の礼拝(れいはい)に初めて出席された方の中には、ちょっとびっくりする方がいるかも知れません。と言うのは、私がお祈りの最初に“ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ”と神さまを賛美するからです。かつて私たちもそうでしたが、日本キリスト教団の教会では、ハレルヤと賛美の祈りを意識してする教会、信徒は意外と少ないと思います。
 私たちの教会では2018年度に、鈴木崇巨(たかひろ)牧師をお迎えして〈聖書が教える祈りの基本〉というテーマで研修会を行いました。その際、祈りの基本は、ハレルヤと神さまを賛美することだと教えられました。それ以来、坂戸いずみ教会では、祈りの初めにハレルヤと賛美する人が増えました。私もそうでしたが、多くの方が最初は違和感を感じたと思います。けれども、次第に慣れて、今では当たり前になりました。
 さて、そのように祈っていた昨年度のある日の礼拝が終わった後、初めて出席された方から、こう言われました。“先生はどうしてハレルヤを3回言わないのですか?”。確かにそのとおりで、たぶんその頃、私はあまり深く考えず2回しか言っていませんでした。でも、質問の意味が分からなかったので、“どうしてそう思ったのですか?”と問い返しました。すると、その方は“神さまは三位一体のお方だから、ハレルヤは3回必要ではないかと思ったのです”と答えられました。見落としていました。でも、理屈抜きにそのご指摘に、そのとおりだと納得して、それからは父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神さまを意識して、3回ハレルヤと賛美するようになりました。
 そして最近、更に気づいたことは、ハレルヤと3回賛美しているのに、祈りの最初の呼びかけは“私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま”としか呼びかけていない、ということでした。それで最近は“主イエス・キリストとその父なる神さま、今も働かれる聖霊なる神さま”と呼びかけて祈りを始めるようにしています。皆さんの中には、私の祈りの変化に気づいている方もおられると思います。
 このような意識を持って祈っていると、キリスト教の信じる神が三位一体であるということが、理屈抜きにしっくり来るようになって来ます。そして、特に聖霊なる神さまを意識するようになりました。今、地上において働かれる聖霊なる神さまは、どんな場面で働いておられるのでしょうか?色々なケースが考えられますが、そのうちの主な働きは、私たちが「御言葉を聞いている」(44節)時に働かれる、ということです。
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 今日読んだ聖書箇所が、そのことを示しています。ローマ帝国の百人隊長コルネリウスは、天使のお告げを受けて、ペトロを自宅に招きました。そして、家族親族、親しい友人と共に、ペトロが語る主イエス・キリストの救いについて御言葉を聞きます。そして、聞いている時に、「一同に聖霊が降った」(44節)のです。すると、彼らは「異言を話し、神を賛美し」(46節)始めました。
 使徒言行録は、聖霊なる神の働きの記録です。聖霊なる神さまが、人々に降り、働き、主イエス・キリストによる神の救いを信じさせ、証しさせ、宣(の)べ伝えさせた記録です。主イエス・キリストが復活し、天に昇られた後、約束の聖霊なる神が地上に降られた。それ以降、父なる神とキリストは天にあり、今は聖霊なる神が地上におられて、人々に直接働きかけ、また私たちの内にも宿り、働かれる時代なのです。
 けれども、皆さんは、自分に聖霊なる神さまが宿り、働いておられるのだろうかと不思議に思い、信じられない気持になるかも知れません。と言うのも、私たちは霊的なものを体感することが滅多にないからです。使徒言行録に記されているように、大きく言えば奇跡を起こしたり、病を癒(いや)したり、また今日の聖書箇所に描かれているような「異言」を語ることもないからです。つまり、私たちは霊的現象のようなものを滅多に経験することがないのです。だから、聖霊なる神は自分には無縁な気がするのです。
 けれども、最も身近な聖霊なる神の働きの体験とは、そんなことではないのです。今日の聖書箇所に、聖霊が降り、霊の賜物をいただいた人々が「神を賛美した」とありますが、聖霊なる神の働きとはまさにそれです。人にハレルヤと神を賛美させることです。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)12章3節で、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と語っています。私たちが、イエスを救い主と信じて、賛美する。それは、私たち自身の意思というだけではなく、私たちの内に聖霊なる神さまが働いてそうさせている、と聖書は捉(とら)えています。御言葉を聞いて、そこで語られている主イエス・キリストの愛が、赦(ゆる)しが、救いが腑(ふ)に落ちて心に受け入れられる時、聖霊は私たちの内に働いています。だれにでも起こる、最も広く、身近な聖霊の働きは、イエスを救い主と信じ、賛美することにほかなりません。
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 そして、私たちが“イエスはわたしの主です。救い主です”と信じられるなら、そこには洗礼を受けるのに何の妨げもありません。この当時のユダヤ人クリスチャンの中にはまだ、異邦人が洗礼を受けて教会の仲間に加わるためには、神さまに選ばれたユダヤ人のしるしである割礼を受けていなければいけない、と考えている人が大半でした。そこに妨げがありました。その妨げを最初に越えたのは、エチオピアの宦官(かんがん)とフィリポでした。使徒言行録8章で、エチオピアの宦官はフィリポから聖書の説き証しを受けました。そしてイエスを救い主と信じて受け入れた彼は、水のあるところに来た時、フィリポに言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何の妨げがあるでしょうか」。そう言って宦官はフィリポから洗礼を受けたのです。
 イエスをわたしの救い主、と信じるなら、洗礼を受けてイエス・キリストに属し、キリストの体である教会の一員になるのに何の妨げもありません。けれども、現代ではむしろ、外からの妨げではなく、自分の内側からの妨げが起こります。まだ教会に来て日も浅く、年数も経っていないから、やめておこう。聖書もあまり読んでいないし、信仰のことも深く分かっていないから、やめておこう。家族に反対されると面倒だから、やめておこう。歳がまだ若いから、やめておこう。とにかくやめておこう。‥‥私たちは、洗礼を受けないことを自分の中で何かと正当化して、自分で妨(さまた)げています。そんな妨げは本当はどうでもよいのではないでしょうか。聖霊が働いて“イエスは私の救い主です。イエスの愛によってわたしは救われています”と信じられるなら、だれも洗礼を妨げることはできないのです。
 もちろん、洗礼は強制されて受けるものではありません。自分自身の問題、生き方の問題ですから、自分の意思で決めることが大事です。けれども、御言葉を聞いた時、聖霊なる神の後押しを感じるなら、きっと今がその時です。求道中の皆さん、どうか自分の内側で、聖霊なる神の声を聞いてみてください。洗礼を受けている皆さん、信仰の先輩として、どうぞ求道をしている方たちのために、聖霊のお働きを祈ってください。

 

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