坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年8月8日 主日礼拝説教   「立ち帰った人」

聖 書 使徒言行録11章19~26節 

説教者 山岡 創牧師

◆アンティオキアの教会
11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキアキプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉(みことば)を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜(さが)しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

 

「立ち帰った人」
 「ステファノの事件」(19節)、それは教会に対するユダヤ人社会の態度が大きく変わるきっかけとなった大事件でした。使徒言行録6章8節から7章に記されています。
それまで民衆は、教会に対して「好意」を抱いていました。けれども、弟子の一人であるステファノが訴(うった)えられ、処刑されたことがターニング・ポイントになりました。偽証されたステファノは裁判の席で、ユダヤ人の歴史とその罪を語り、更に今、目の前にいる人々にも“あなたがたも律法を破り、同じように罪を犯している”と非難したのです。その非難は、ステファノを裁判にかけた人々だけではなく、教会に好意を持っていた民衆の気持と態度も変えてしまったと思われます。
 そして、ユダヤ民衆の好意の目が変わったことを背景に、教会に対する大迫害が起こりました。特に、今日の聖書箇所にもキプロス島やキレネから来た者がいて」(20節)とありますが、そのような海外出身のユダヤ人の弟子たちが迫害の標的にされたようです。教会と言っても、大きな礼拝堂があるわけではなく、個人の家での小さな集まりがいくつもあり、その中で、海外出身の弟子たちが集まる家が狙われたのでしょう。

 迫害された海外出身の弟子たちは、エルサレムを脱出し、フェニキアキプロス、アンティオキアまで逃げたことが記されています。キプロス島は地中海に浮かぶ島ですし、フェニキアもアンティオキアもエルサレムから相当離れており、また、それらの地域はいわゆる“海外”ですので、そこまでは迫害の手が及ばなかったようです。
 とは言え、それら海外の町にもユダヤ人が住んでおり、ユダヤ人が集まる会堂がありました。会堂はシナゴーグと呼ばれ、“ユダヤ人の公民館”のようなものです。エルサレムから逃げた弟子たちは、それらの会堂で行われる安息日の集会に参加し、そこで主イエス・キリストの救いについて「御言葉」(19節)を語りました。信じて受け入れるユダヤ人もいれば、拒否するユダヤ人もいたでしょう。でも、海外のユダヤ人の間ではまだ、キリストを信じる弟子たちが迫害されるような空気ではありませんでした。
 そういった中で、アンティオキアで思い切った行動を取る弟子たちがいました。ギリシア語を話す人々」(20節)、つまり外国人にも「語りかけ、主イエスについての福音を告げ知らせた」(20節)のです。ユダヤ人は外国人とお付き合いしてはならないと律法に定められていますから、その時点でユダヤ人としてはアウトです。でも、元々海外出身のユダヤ人でしたから、外国人と接触することにそれほど抵抗がなかったのでしょう。彼らの心の中で、律法を守るよりも、主イエス・キリストの救いを伝えたいという気持の方が大きかったのではないでしょうか。人は、心に喜びを持つと、それをだれかと分かち合いたいという思いが湧き上がって来るのです。
 『関東教区通信』という、日本キリスト教団関東教区の情報を載(の)せた通信が年に3回、教会に送られてきます。8月1日付けの164号に、今年度、関東教区で准允を受け、教区内の教会に赴任した牧師の紹介が載っていました。ちなみに准允(じゅんいん)というのは、神学校を卒業したばかりのルーキー教師が受ける“辞令”のようなものです。
 その中で、K教会に赴任したH伝道師がこんななことを書いておられました。
私は、大学生の頃に初めて教会の門をくぐって以来、教会は楽しいところだと感じてきました。教会には、御言葉が説教され、信仰者が起こされる喜びがあるからです。そして、私もこの喜びにお仕(つか)えしたい、伝道のために用いられたいとの志(こころざし)を与えられ、伝道献身者とされました。
 高校2年生の時に坂戸いずみ教会の門をくぐり、昨年4月に新潟県栃尾教会に赴任した野澤幸宏先生みたいだと、ふと思いました。御言葉が喜びだって!?高校生までの私だったら、そう思ったに違いありません。でも、今は御言葉が喜びだとはっきり分かります。キリストの愛が語られるからです。至らない、罪深い“私”が、自分の力ではどうにも自分を変えられない弱く、愚(おろ)かな“私”が、キリストの愛によって赦(ゆる)され、立てられ、生かされている恵みが分かるからです。自分の力で生きているのではなく、キリストの愛によって生かされている喜びが分かるからです。アンティオキアで「御言葉」(19節)を外国人に伝えた弟子たちも、きっとそういう思いだったに違いありません。そして、その喜びを通して、聖霊なる主キリストの力が働いて、「信じて主に立ち帰った者の数は多かった」(21節)のです。ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、日本人であろうと、伝わるものは伝わる。それが「御言葉」であり、「福音」です。
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 ギリシア語を話す多くの外国人が、主に立ち帰りました。立ち帰る、元の位置や状態に戻る、という意味です。本来あるべき自分の立ち位置に戻る、ということでしょう。主イエスが語られた〈放蕩(ほうとう)息子のたとえ〉が頭に浮かびます(ルカ15章)。父親に財産を生前贈与させ、それをお金に換え、父親の目の届かないところに出て行き、放蕩三昧の生活をした弟息子が、スッテンテンになり、だれからも相手にされなくなった時、我に返り、自分の間違いを思い、父親のもとに帰って行く話です。このたとえ話の父親とは神のこと、弟息子は私たち人間のことですが、主イエスは、人が本来あるべき立ち位置とは、神さまとの関係の中にある。神の言葉に耳を傾け、神に愛されている自分を知り、神を愛し、人を愛すること、互いに愛し合うことだと考えているのです。
 「立ち帰る」という言葉を英語の聖書で調べてみましたら、ターンturnという言葉が使われていました。ターンする。180度、方向転換をする。神さまに背中を向けて、神の言葉に耳を傾けず、自分の力だと思い上がり、自己中心に、神さまから離れて行く方向に生きてきた。そんな人生の向きを、神さまの方にターンするのです。神さまと向き合い、その言葉に耳を傾け、神の愛と恵みに喜び感謝し、神さま中心に、神さまに近づいて行く方向に向きを変えて生きるのです。
 最近時々、高速道路を自動車で逆走したというニュースを聞きます。びっくりします。大事故にならなくてよかったなぁ、と思うことがあります。私も実は人のことを言えません。一度、夜の暗闇の中、交差点で右折した時、誤って右から来る道路の右折レーンに入ってしまったことがありました。幸いすぐに気づき、対向車が来ていなかったので事故にはならず、恥ずかしい思いをしながらバックして、本来の右方向へ進む道路に入り直しました。人生も逆走は危険、本来進むべき方向があるように思います。それは神さまを信じて進む方向です。“愛”を信じ、愛を大切にして生きる方向です。
 私は一度通った道路は記憶する性質(たち)ですが、同じ道でも逆に走ると全く違う景色に見えます。だから、記憶するためにポイントポイントの風景や建物を覚えるのですが、同じ自分の人生も、逆方向に走ったら、きっと違う景色が見え、全く違う人生に感じるに違いありません。神さまの見える方向、愛を感じる方向に進みたいものです。

 

 

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