坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年8月15日 主日礼拝説教 「活路 ~ 上着を着て、ついて来なさい」

聖 書 使徒言行録12章1~17節

説教者 山岡 創牧師

ヤコブの殺害とペトロの投獄
12:1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕(と)らえようとした。それは、除酵祭(じょこうさい)の時期であった。
12:4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭(すぎこしのまつり)の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
12:5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
◆ペトロ、牢から救い出される
12:6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
12:7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
12:8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。
12:9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。
12:10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。

12:11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣(つか)わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
12:12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
12:13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。
12:14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。
12:15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。
12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
12:17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。

「活路 ~ 上着を着て、ついて来なさい」
 ステファノの逮捕と殉教(じゅんきょう)事件(6~7章)を境にして、教会に対する人々の見方が変わりました。それまでユダヤの民衆は、キリストを信じる人々を“ユダヤ教キリスト派”として、“あれは良い集まりだ”と好意の目で見てくれていました。ところが、ステファノ事件をきっかけに敵意の目で見るようになります。ステファノがユダヤ人の信仰を、神さまに逆らっている、と非難したからです。
そのために教会の中で、特に海外出身のユダヤ人クリスチャンが大迫害を受けることになりました。迫害された人々はエルサレムから逃げ出します。けれども、彼らは逃げた先でキリストを宣べ伝え、海外に多くの教会が生まれました。
 さて、その頃、残されたエルサレム教会はどうなっていたでしょう?なんと地元出身のユダヤ人クリスチャンが迫害されていたのです。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(1~2節)と記されています。ヤコブと言えば、ペトロ、ヨハネと並ぶ、教会において中心的な使徒です。そんな中心人物にまで迫害の手が及ぶということは、教会に対する世間の見方が更に悪くなっていた、ということでしょう。実際、ユダヤ人はヘロデ王のその行為を喜んだと書かれています。そのため調子に乗ったヘロデ王は、教会の第一人者であるペトロをも捕らえて、ユダヤ人の過越祭の後で処刑しようと企てました。十字架刑にされたイエス・キリストの“二の舞”にしてやろう、と考えたのでしょう。

 *
 ペトロは、四人一組の兵士に監視され、牢屋に監禁されていました。教会ではペトロのために「熱心な祈りが神にささげられていた」(5節)とありますが、どう考えても助かる見込みのない、脱出不可能な状況です。
 ところが、奇跡が起こります。牢屋に天使がやって来て、気づかれないようにペトロを連れ出し、解放したというのです。いったい何が起きたのでしょう?どうして兵士たちは気づかなかったのでしょう?天使とは何者なのでしょう?
 “天使”という天の存在、霊的な存在を否定するつもりはありません。けれども、この時、ペトロを助け出した天使は“人間”だったのではないか、と私は思います。ユダヤ人の多くは見方が変わったとは言え、今もなお教会に好意を寄せる人々もいたのではないでしょうか。もしかしたらヘロデ王の兵士の中に“隠れキリシタン”のような人がいたのかも知れません。そういう人物が複数いて、見張りの兵士たちが居眠りしている隙に、あるいは眠り薬でも飲ませて、牢屋からペトロを連れ出した。第一、第二の衛兵所にも味方がいて、見つからないようにペトロを通した。それでペトロは、門の外の通りまで出ることができた。そんな想像を私は巡らすのです。
その人が素性も明かさずに離れ去った時、ペトロは我に返って言います。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出だしてくださったのだ」(11節)
「本当のこと」って何でしょう?それは、主なる神、主イエス・キリストが、自分を救い出してくださった、ということです。いやいや、救ってくれたのは天使でしょう?山岡牧師が言うように、その天使が“人間”だとしたら、救ってくれたのはその人でしょう?神さまじゃないよ‥‥。神さまを信じない人なら、そう考えるかも知れません。
 けれども、信仰の人は神さまを信じます。目に見えないものを信じます。自分に働きかける色んな人や、モノや、出来事の背後で、目には見えないけれど神さまが自分を救おうとして働いてくださっていると信じるのです。ある人が、よく私にメールを送って来てくれます。“今日も無事に仕事を終えられました。救われました。主イエス・キリストと父なる神さまに感謝します”と。その気持、よく分かります。自分ががんばって、我慢して、努力して、無事に仕事を終えたのだと言うこともできるでしょう。けれども、その人は、決して自分の力だけではない。自分のがんばり、我慢、努力の裏で、神さまが導(みちび)き、支え、助けてくださっていると信じているのです。それが、信じる人にとって、「本当のこと」であり、感謝であり、生きていく支えなのです。
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 使徒言行録2章に描かれているように、約束の聖霊が降(くだ)ったペンテコステの日からこっち、ペトロにとって色んなことがうまく行きました。イエス・キリストのことを力強く宣教できる。病気や障がいを負った人々を、自分の手で癒(いや)すことができる。そのためにイエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加わる人が何千人と増えて行く。そういう日々の中で、ペトロは有頂天になっていたかも知れません。“これは自分の力だ”と思い上がり、「本当のこと」を忘れかけていたかも知れません。そんなペトロに、神さまは困難を通して、「本当のこと」を思い出す機会を備えてくださったのでしょう。
 私たちの人生の出来事は、必ずしも自分に都合よく運ぶとは限りません。そんなに都合のよい“救い”ばかりではありません。今から76年前の今日、1945年8月15日、太平洋戦争が敗戦の日を迎えました。あの時代、天皇を現人神(あらひとがみ)と祭る国民総動員の体制の中で、一部の教会は断固、キリストを神と信じたため“非国民”とののしられ、国家の迫害を受けました。弘前住吉教会の辻啓蔵牧師もその一人でした。1942年の夏に辻啓蔵牧師は捕らえられ、青森刑務所に投獄されました。私が神学生だった時、夏の実習でお世話になった静岡草深教会の牧師・辻宣道先生の父親です。
 奇跡は起こったのでしょうか?天使が現れ、辻啓蔵牧師は牢獄から助け出されたのでしょうか?‥‥いいえ、啓蔵牧師は獄中で1945年1月に亡くなりました。母親と一緒に、父親の遺体を刑務所に引き取りに行った、当時小学生だった宣道先生は、その日以来、神さまが信じられなくなった、といいます。子ども心に無理もありません。
 けれども、辻宣道先生は、いったん離れた信仰の道に戻って来ます。そして、献身して牧師にさえなりました。ある意味で“奇跡”だと言っても過言ではないでしょう。どうしてこのような奇跡とも言える“信仰へのUターン”が辻先生の人生に起こったのでしょうか?それは、今日の聖書の言葉を借りて言うならば、「本当のこと」が分かったからでしょう。辻先生が「本当のこと」を思い出したから、取り戻したからに違いありません。自分に働きかける色んな人や、モノや、出来事の背後で、目には見えないけれど神さまが自分を救おうとして働いてくださっている。それは必ずしも自分にとって都合の良いことばかりではなく、苦しみや悲しみもある。でも、そのような現実の背後で、神さまは自分を愛し、自分を救おうと働いてくださっている。だから、絶望せず、虚無に陥らず、そこに込められている“良いもの”を捜し当てよう、“神の愛”を、そして“人の愛”を信じて探し続けよう。そういう信仰のスタンスを、辻先生が取り戻したからに違いありません。人生の“活路”が、そこにあります。

 

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