坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年8月22日 主日礼拝説教  「神の声に謙遜にならなければ」

聖 書 使徒言行録12章18~24節

説教者 山岡 創牧師

12:18 夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。
12:19 ヘロデはペトロを捜(さが)しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
ヘロデ王の急死
12:20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。
12:21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
12:22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
12:23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰(き)さなかったからである。ヘロデは、蛆(うじ)に食い荒らされて息絶えた。
12:24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。

 

「神の声に謙遜にならなければ」
 “神!”、若者がよく使う言葉です。もちろん“神さま”の神です。“マジで神!”などと言ったりします。年輩の方々は聞いたことがおありでしょうか?
 この場合の“神”とは、すごい、すばらしい、という意味で、人が行っている神がかり的な事に対して最上級のほめ言葉として使います。例えば、ネット・ゲームで圧倒的に強い人を“神”と言って称賛したり、すばらしい音楽のパフォーマンスを“神演奏”と言ったりします。普通の人間じゃない。人間離れしている。神さまみたいだ‥‥‥そんな驚きと称賛が込められています。
 もちろん、この言葉には信仰なんて全く、1%も込められていません。それは分かっています。でも、この言葉を聞くと、私はほんの少しですが抵抗を感じます。そこに神さまを持ち出していいのか?、無礼ではないか?と。教会に来ている若い人たちはそんなこと、全く感じたことはないでしょうか?
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 ティルスとシドンの住民たちも、ヘロデ王に向かって言いました。“マジ神!”と。王と住民たちの和解の式典で、ヘロデ王が演壇に立ち、演説をした時、集まった人々は叫びました。「神の声だ。人間の声ではない」(22節)
 称賛ではありません。ティルスとシドンの住民は、おもねって「神の声だ」と言っているのです。本当は、これっぽっちも神の声だなんて思っていない。住民がそのように心にもないことを言うのは、ヘロデ王の怒りを買いたくないからです。
 何があったか分かりませんが、ヘロデ王ティルスとシドンの住民に腹を立てて」(20節)、食糧封鎖を行ったようです。それで、困った住民は、王の侍従ブラストに賄賂(わいろ)を贈って、和解の執(と)り成しを頼みました。ブラストの執り成しでヘロデ王は機嫌を直し、それでは赦(ゆる)してやろう、食糧封鎖を解いてやろう、と考え、記念式典が開かれる運びとなりました。そういう事情ですから、住民たちは、ヘロデ王にはこれからも機嫌良く食料を送り続けてもらおうと、最上級のほめ言葉を使って持ち上げたわけです。
 余談になりますが、人間を“神”と称賛する言葉、多神教なら、ありなのかも知れません。多神教ならば、神さまは何人いてもいいわけですし、実際、人間を神さまに祭り上げることもあります。けれども、ユダヤ教キリスト教のように一神教の場合、人間を“神”と称賛することはあり得ません。神は唯一ですし、人間をはるかに超越した存在と信じていますから、それは神さまに対する冒涜であり、不信仰になるからです。
 ヘロデ王は、「神の声だ」とほめそやされたことに満更(まんざら)でもなかったのでしょう。もちろん、それを謙遜に否定などせず、「神に栄光を帰」(23節)しませんでした。思い上がっていたのです。そのためにヘロデ王は天使に打たれて死んだと使徒言行録は報告しています。脳梗塞か、心臓発作か、そういった突然の死がヘロデ王を襲ったのでしょう。
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 人は“本物”の神の前に、神の声に謙遜でなければなりません。今日の聖書箇所の最後に、バルナバとサウロがヒョイッと出て来ます。この後、二人はキリストを宣べ伝える旅行に出るのですが、14章8節以下で、サウロが歩けなかった人を癒す奇跡を行った時、人々が“神”として祭ろうとします。それを知った二人は、人々の中に飛び込んで、それを止めさせ、自分たちは“本当の神”を皆さんに伝えるために来たのだ、と話し始めるのです。ヘロデ王とは大きな違いです。
 サウロは、本当の「神の声」を聞きました。キリストの声を聞きました。もちろんサウロはユダヤ教徒として、自分は“神”だなどと思い上がってはいませんでした。けれども、教会を迫害する自分を“正しい”と信じ、その行動を“神の御心(みこころ)だ”と思い込んでいました。信仰は、ともすれば人を独善的にし、その意味で“神”にしてしまいます。    
そんなサウロに、キリストは天から「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」(9章4節)と声をかけ、「起きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」(9章6節)とサウロを導(みちび)かれました。その声によって、教会迫害が神に逆らう罪だったことが知らされました。その声を受け入れることは、決して簡単なことではなかったはずです。自分を全否定することになるからです。けれども、サウロはこの神の声を受け入れ、キリストの赦しによって再起し、キリスト者として歩きはじめるのです。
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 神の声を謙遜に聞く。そして、思い上がっていた自分を悔い改める。以前にもお話したことがありましたが、吉田博さんという多摩ニュータウン教会の信徒の方が、『信徒の友』2019年4月号に次のような証(あか)しを書いておられます。
吉田さんは山形県天童市に生まれ、高校3年の時、天童の教会で洗礼を受けます。その後、早稲田大学を卒業して三菱銀行に就職。10年後、人事部に異動し、競争の最前線に押し出され、42歳の時、同期で一番早く支店長になったといいます。
 けれども、忙しすぎて家庭を省みない生活が続いたことから、妻に離婚を切り出され、何とか赦しを乞い、離婚は免れます。しかし、忙しい日々は続き、今度は子どもとの確執が深まっていったといいます。
 そんなある日、妻の誘いで、ある読書会に出席するようになった吉田さんは、カトリックの司祭ヘンリ-・ナウエンと出会います。そして、ナウエンが、著書『いまここに生きる』の中で書いている“階段を降りなさい”という言葉に心を打たれるのです。
 私はキリスト者として良い証しをするには、社会的に評価される必要があり、そのために上を目指さなければならないと考えていました。ところがナウエンは、それは自分の欲に過ぎず、むしろ「階段を降りなさい」と勧(すす)めます。
 ナウエン自身が、ハーバード大学の教授、カトリックの高い地位を降りた人でした。ジャン・バニエという人に影響を受け、彼が創ったラルシュ共同体という施設に移住し、そこで知的障がい者と生活を共にする道を選んだのです。階段を降りたのです。
 読書会で学んだ吉田さんはその後、銀行内の健康相談室長を頼まれ、引き受けます。出世コースを捨て、銀行の役員候補から降りたのです。そして健康相談室では、精神科医やカウンセラーと一緒に、競争や激務で心の病を持った方に寄り添います。
 階段を降りた後の人生の変化を考えると、22年前の「階段を降りなさい」という一言が、神からの細い声であったのではと感じています。年齢を重ねるにつれて気づかされることは、自分が主体的にがんばって備えるより、神によって備えられることを待つ大切さです。階段を降りることが、神との新しい冒険となり、今も冒険は続いています。
 吉田さんにとって、“階段を降りなさい”という言葉は、神の声でした。それを受け入れ、決断することは簡単ではなかったでしょう。すべての人がそうしなければいけない、と言うつもりはありません。けれども、一歩引いて求める時、神の声が聞こえて来ます。そして、謙遜(けんそん)にその声を聞き、従う時、私たちにも全く違う人生の風景が見え、“神との新しい冒険”の道が拓(ひら)けるのではないでしょうか。

 

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