坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年8月29日 主日礼拝説教  「祈って、驚く」

聖 書 使徒言行録12章12~17節

説教者 山岡 創牧師

12:12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
12:13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。
12:14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆(か)け込(こ)み、ペトロが門の前に立っていると告げた。
12:15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。
12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
12:17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。

 

「祈って、驚く」
 祈って、驚く。それって、どういうこと?、意味が分からない‥‥と思った人もいるのではないでしょうか。確かに、変な題だと私も思います。けれども、今日の聖書箇所の内容を考えると、こういう題になるのです。そこに登場するクリスチャンたちが、祈りにおいて“どうして驚くの?”と疑問を抱(いだ)かせる行動を取っているからです。そして、その姿を見ながら、祈りって何だろう?と改めて考えさせられるのです。
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 使徒言行録6章8節~7章に描かれているステファノ事件をきっかけに、エルサレム教会に対する大迫害が起こりました。当初の迫害は、ステファノのように、海外出身のユダヤ人クリスチャンたちに対してなされました。
 ところが、12章になると、ヘロデ王によってユダヤ出身の中心人物に迫害の手が伸ばされるようになります。使徒の一人であるヤコブが剣で切り殺され、「それがユダヤ人に喜ばれるのを見て」(3節)ヘロデ王は、更に教会の中心であるペトロを捕らえます。そして、主イエスの十字架刑の時と同じように、過越祭(すぎこしのまつり)の後でペトロを処刑し、主イエスの“二の舞”にして、ユダヤ人の受けを取ろうとしたのです。
牢に監禁されているペトロのために、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と4節、12節に記されています。彼らは“何を”祈っていたと思いますか?
 聞くまでもない、ペトロが助かるように、でしょう‥‥‥と皆さんも思いますよね。
 ところが、です。いざ、ペトロが牢屋から助け出されて、教会に戻って来ると、“信じられない”“そんなことはあり得ない”と彼らは言うのです。ロデという女中が門でペトロを見つけ、皆に告げると、彼らは、「あなたは気が変になっているのだ」(15節)と言いました。つまりそれは、ペトロが牢から抜け出して、この家に来るなんてあり得ない、そういう形で助かるなんて信じられない、と彼らは思っている、ということでしょう。そして、祈りという点で更に言えば、彼らは、ペトロが助かるようにと祈りながら、その祈りが実現するとは思っていない。だから、実際にペトロが門前に立っている姿を見て、「非常に驚いた」(16節)のです。
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 自分が祈ったことが実現すると信じていない祈りって、何なのでしょう?そこに信仰はあるのでしょうか?‥‥ある意味で、無理もないと思います。4人一組の兵士たちが4組交代で牢の番をしているのですから、ペトロが牢から脱出できるとは、常識的に言って考えられません。彼らにしたら、牢からペトロが脱出できるように、ではなく、過越祭の後の裁判で無罪判決が下されるように、とでも祈っていたのでしょうか。
 けれども、考えてみれば私たちも、こういう祈りをするのではないでしょうか。自分が祈ったことが実現すると本気で信じないで祈っている。例えば、自分の、あるいは愛する人の重い病が癒(いや)されるようにと祈る。でも、その一方で常識的に考えて、癒されないと思っている。難しい問題が解決するようにと祈る。でも、現実的に考えて、それが解決するとは思っていない。そういう矛盾したような祈りを、私たちはするのです。
 でも、更に踏み込んで考えてみると、私たちの祈りは、それでいいのかも知れない、それが常識と信仰の間で生きる私たちの祈りの“リアル”なのだと思いました。ヘブライ人への手紙11章に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)とあり、確かにそうなのですが、では、そこまで確信的な信仰を持っている人がいるかと言えば、まずいないでしょう。私たちの信仰は弱い、薄いのです。
 では、そこに信仰は全くないのか?、そんな信仰ではだめなのか?‥‥そうではないと思うのです。私たちには信じられないことがたくさんあります。あり得ないと思うことが少なからずあります。けれども、それを望みます。望まずにはいられない時があります。だから祈るのです。私たち人間の力では不可能だからこそ、一縷(いちる)の望みをかけて神さまに祈るのです。絶望に飲み込まれないために、人生を諦(あき)めないために祈るのです。そこに私たちの“信仰”が、確かにあります。
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 そして、私たちのリアルな祈りに、神さまは必ず応えてくださいます。主イエスは弟子たちに教えました。「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7章7節)と。父なる神は、パンを求める人に石は与えない。魚を求める人に蛇は与えない。求めたものとは違うかも知れないけれど、それは神さまに“この人にはこれを与えるのが良い”と思う御心があるからだ。しかし、たとえ求めたものとは違うものでも、父なる神は「求める者に良いものをくださるにちがいない」(7章11節)と主イエスは教えています。神さまは、私たち、祈り求める者に「良いもの」をくださるのです。
 そこで与えられるものが、私たちの常識、想像以上である時、私たちは驚くのです。想像以上の恵みに、私たちは驚き、感謝し、神さまをほめたたえるのです。
 また、私たちは祈り求めることを通して信仰を養(やしな)われ、深められ、神さまが与えてくださるものが、私たちの願いを越えた「良いもの」であることを受け入れるようになっていきます。そのような祈りの信仰を、J.R.ルーシーという神父が、次のような詩に表しています。(『愛することは許されること』108頁、渡辺和子著、PHP出版)
  大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
    謙遜を学ぶようにと弱さを授(さず)かった。
  より偉大なことができるように健康を求めたのに、
    より良きことができるようにと病弱を与えられた。
  幸せになろうとして富を求めたのに
    賢明であるようにと貧しさを授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
    得意にならないようにと失敗を授かった。
  人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、
    あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞き届けられた。
  神の意に沿わぬものであるにもかかわらず、
    心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
  私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
 授けられ、与えられたものが、神さまから祝福のプレゼントであることを悟(さと)った時、人生とはまさに驚きです。そして、その驚きが、私たちの信仰を一歩、確信へと近づかせるのです。

 

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