坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

f:id:sakadoizumi:20210928162158p:plain2021年9月5日 主日礼拝説教   「決めておいた仕事」

聖 書 使徒言行録13章1~3節                                     
説教者 山岡 創牧師

1アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。 2彼らが主を礼拝(れいはい)し、断食していると、聖霊(せいれい)が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 3そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
4聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、 5サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。 6島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。 7この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。 8魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。 9パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、 10言った。「ああ、あらゆる偽(いつわ)りと欺(あざむ)きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。 11今こそ、主の御手(みて)はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。 12総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。
13パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。

 

「決めておいた仕事」
 アンティオキア教会。そこは、ユダヤ人だけではなく、初めて異邦人の弟子が生まれた教会であり、また弟子たちが初めてキリスト者(13章26節)と呼ばれるようになった教会でした。そんなアンティオキア教会の中心的な預言者や教師の名前が、今日の聖書箇所の最初に記されています。
 バルナバキプロス島出身のユダヤ人で、エルサレム教会でも聖霊と信仰とに満ち」(11章24節)た人物として、良い働きをしました。教会を迫害したサウロを、この教会に連れて来て教師としたのもバルナバでした。寛容で、柔軟な人だったのでしょう。
 ニゲルと呼ばれたシメオン。ニゲルとは“黒い”という意味だそうです。ニグロという現代語があるように、肌の黒い人種であり、元々ユダヤ人ではなく異邦人であり、改宗して割礼(かつれい)を受け、ユダヤ人になった人ではないかと思われます。
 ルキオはキレネ人、つまりアフリカの北側の海岸沿い、今のリビア辺りの出身です。
 領主ヘロデと一緒に育ったマナエン。ヘロデは、12章の冒頭で、エルサレム教会を迫害した「ヘロデ王」のことです。従兄(いとこ)同士か何かで一緒に育ったようですが、マナエンは“権力の道”に嫌気がさし、真実と愛を求めてキリスト者となったのかも知れません。
 そしてご存じ、最初は教会を迫害していたサウロです。彼はタルソス出身で、聖書に精通していたので、キリストの救いを説き、教える教師に最適だったのでしょう。
 このように、教師だけでも、人種や信仰の経緯の違う、ユニークな人物たちが集まっていました。今風に言えば“ダイバシティ(多様性)”のある教会です。
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 彼らを中心に、アンティオキア教会には、ユダヤ人と異邦人、様々な人種のキリスト者が混在していたでしょう。人種や民族によって、価値観や思考、ライフ・スタイルは相当違っていたでしょう。また、人種民族にかかわらず、個人の考えや気持にもずいぶんギャップがあったと思われます。その違いの中で、優越感があったり、妬(ねた)みや劣等感があったり、好き嫌いがあったり、独善的な言動があったり、人が何人か集まるだけでもそうなのに、まして人種、民族の違いにユダヤ人独特の信仰と生活習慣が絡(から)み、“違いの坩堝(るつぼ)”のような教会だったのではないでしょうか。
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 では、そのような教会がどのようにして共に生きることができたのでしょう?その秘訣は“礼拝”だと思うのです。「彼らが主を礼拝していると」(2節)と記されていますが、この礼拝が鍵です。“何を当たり前のことを。教会ってそういうところでしょう!?”と思われるかも知れません。そのとおりですが、では礼拝とは何だと思いますか?
 礼拝とは、人が神を賛美する機会です。神の言葉を聞く交わりです。つまり、人が神さまの前に立ち、神さまと向き合う場です。そこで何が分かるのか?人と比較し、争っている“自分”です。人をうらやんだり、人を悪く言っている“自分”です。人を受け入れず、否定している“自分”です。他の人だけがそうなのではない、自分もそういう人間なのです。聖書の言葉で言うなら“罪人(つみびと)”なのです。神さまに心を開いて、真剣に向き合う時、そういう自分の姿が、内側が見えてくるのです。
 けれども、見えてくるのはそれだけではない。聖書は私たちに語りかけます。そのような罪人のあなたが、神に赦(ゆる)されていると。キリストの十字架によって神の赦しが示されていると。キリストの復活によって、あなたはこの罪から再生できると。そうです、あなたは罪人だけれど、それで終わらない。神さまに赦され、“愛されている罪人”なのだと聖書は私たちに語りかけるのです。人に対する神さまの肯定です。受容です。
 私は罪人だ。でも、赦され、愛されている人間だ。そう信じる時、私たちは平安になります。自分を肯定し、自信を得、再起します。そして私(自分)だけではない。隣にいるこの人も、神さまに赦され、愛されている人だ。そのことを悟った時、私たちは違いをいがみ合うのではなく、神さまに愛されている人間同士として互いにいたわり、愛し合い、共に生きることができるようになります。
もちろん、すべての言動や態度が完璧になることなどあり得ません。失敗もあります。“つい‥”ということもあります。罪を犯します。でも、互いに愛し合い、共に生きる道に立っています。招かれています。それが、礼拝を共に守るということです。礼拝を守ることで、私たちは忘れていたことを思い出し、リセットされ、再生します。目には見えませんけれど、聖霊(2節)が働くとはそういうことです。
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 星野正興という牧師が、『風に吹かれて散らされて』(教文館)という著書の中で、アンティオキア教会は“パッチワーク”のような教会だ、と書いています。
 パッチワークというのは色々な素材、色々な形、色々な色の端切れをつないで作るものである。そして、一つ一つの違いがそのまま生かされて、美しさを作り出している。そして、パッチワークは、一つのしみでさえもその全体を形作る材料となる。変色の端切れでもかまわない。アンティオキア教会は、そんなパッチワーク教会だったと思う。そこには多様性があった。(前掲書89頁)
 6月に妻と青梅市に出掛けた時、ホットマンという、タオル・メーカーの直売店に立ち寄りました。そこで見たパッチワークの屏風(びょうぶ)が、とてもきれいで、すてきだったことが印象に残っています。パッチワーク、ばらばらのようで不思議な一体感があります。
 教会も、サウロがコリントの信徒への手紙(一)12章で語っているように、一人ひとりが、一つの体、キリストの体の目であり耳であり、手であり足であり、体を機能させるために、それぞれの「仕事」(2節)を自覚して行う時、一人ひとりができることをして貢献する時、不思議な一体感が生まれると思うのです。一人ひとりの教会での仕事、できることは違います。神さまが「決めておいた仕事」があります。牧師の仕事があります。役員の仕事があります。礼拝での奉仕があり、係や委員会の仕事があります。いや礼拝に出席すること自体が、私たちキリスト者のいちばんの仕事だと言うことができます。今はコロナ禍の中で、この場所に来られない人も少なからずいます。でも、家で聖書を読み、教会のため、みんなのために祈ることができる。それは、パッチワークの1枚の端切れとして、一つの体の一部として、自分の仕事、できることをしていることなのです。だれが見ていなくても、神さまはちゃんと知っています。そういう一人ひとりの思いが寄り合って、つながって教会が造られていきます。
 そのような端切れの1枚1枚をつなぎ合わせる“糸”が、主イエス・キリストなのだと星野先生は語っています。私たちも、主イエス・キリストによってつなぎ合わされ、それぞれに託されている「仕事」を担って、愛のある、すてきな“パッチワーク教会”を造り上げていきましょう。

 

 

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