坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年11月7日(日) 永眠者記念礼拝説教「死者は生きている」     
聖 書 マルコによる福音書12章18~27節

説教者 山岡 創牧師

18復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。 19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。 21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」


「死者は生きている」
 私、まだ若いから、天国で誰かにプロポーズされるかも知れないわ。後に残るあなたのことの方が心配。(『生きかた上手』171頁、日野原重明・著)
 そのように、自分の夫に、微笑みとユーモアとやさしい気遣いを残して天に召された39歳の女性がいました。
 他方で、こんなことを言う人々もいます。私たちの掟には、次のような決まりがあります。人がその妻を残して死に、もし跡取りの息子がいなかったら、その人の弟が兄嫁と結婚して、兄のために跡取り息子をもうけなければなりません。ところが、あるところに7人兄弟がいて、いちばん上の兄が後継ぎをもうけずに死に、次の弟も、その次の弟も‥‥‥7人全員が後継ぎ息子をもうけずに死にました。ところで、7人の兄弟と結婚した妻は、天国ではいったいだれの妻になるのでしょうか?
 この二つの言葉を聞いて、皆さんはどう思いますか?どちらが、あぁ、いいなぁ、と感じるでしょうか?まず間違いなく、ほとんどの人が、39歳の女性の言葉に、心がホッコリとするだろうと思います。なぜなら、この女性の言葉には“愛”が感じられるからです。夫に対する微笑みとユーモアと気遣いがあるからです。夫が地上で二人の女性と結婚したら、天国に行った時、いったいどうなるの?どっちの女性の夫になるの?なんて理屈も、心配も、これっぽっちも感じられません。
 他方、今日の聖書箇所に出てきたユダヤ教サドカイ派の人々は、つまらない理屈ばかり、こねくり回しています。確かに、ユダヤ教の掟である律法には、彼らが言うような決まりがあります。旧約聖書申命記25章5節以下に、その掟が記されています。
 けれども、それはこの世での掟です。神に選ばれた民族として、家名の存続、血筋の存続を非常に重要と考えていたユダヤ人が、それを途絶えさせないために考え出したこの世のルールです。だから、それを「復活の時」(23節)、天国に適用するのは、まさに「思い違い」にほかなりません。
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 そのように理屈っぽい考え方は、復活という新しい命の世界にふさわしくないのです。だから、主イエスは言われました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。こう言って主イエスは、「復活の時」という新しい命の世界を理屈で考えようとすることを「思い違い」だと言われました。
 けれども、この言葉を聞くと、私たちの中には違う心配をする人がおられるかも知れません。えっ!?天国に行ったら、今の結婚関係は解消されてしまうの?それは嫌だなぁ。私は、天国に行ってからも、この人(夫、妻)と結婚関係を続けたいのに‥‥そんな心配をする人もいるかも知れません。
 でも、そのような心配をする必要はないと私は思うのです。主イエスが、「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われたのは、単に、天国ではこの世での結婚関係が解消される、ということを言おうとしたのではないと思います。そうではなくて、新しい命の世界を、この世の理屈で考えるな、と言っておられるのだと私は受け止めました。つまり、そこは“理屈”の世界ではなく、“気持”の世界なのです。“愛”の世界なのです。私たちを愛し、私たちの命を生かし、私たちの気持を汲んでくださる神さまの愛が満ち満ちている世界だと思うのです。ですから、この世のルールや常識で、この命の世界、天国を受け取り、心配する必要はないのです。
 だから、一方では、最初に紹介したように、私まだ若いから、天国で誰かにプロポーズされるかも知れないわ。後に残るあなたのことの方が心配、という結婚相手に対する優しさがあり得るし、他方では、ぼくが先に天国に行って、庭の広い家を用意して待っているからね、というユーモアと慰めもあり得るのです。その両方があり得る、その両方の思いが生かされるのが新しい命の世界です。神さまが、最善にしてくださるのです。
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 そんな世界は矛盾している。筋が通らない‥‥。皆さんはそのように思われるでしょうか?そのように考えて、復活を否定していたのがサドカイ派でした。だから、サドカイ派の人々は、主イエスを困らせてやろうと考えて、あのような質問を浴びせたのです。
けれども、主イエスは、「天使のようになる」という答えで、「復活の時」をこの世の掟で考えているサドカイ派「思い違い」を指摘しました。
更に主イエスは、復活そのものを否定する彼らの信仰に切り込みます。「死者が復活することについては‥‥‥『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(26~27節)。
 モーセの書の『柴』の箇所」(26節)というのは、旧約聖書出エジプト記3章のことです。エジプトでの革命に失敗し、荒れ野に逃げて40年間の逃亡生活を送ったモーセに、神さまは、燃えているのに燃え尽きない柴の木の中から語りかけ、エジプトに戻り、もう一度、奴隷にされている同胞を助けよ、と命じます。その時、神さまがなさった自己紹介が「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というものでした。アブラハムは、神さまが罪の世界に祝福を届けるべく“祝福の器”として選んだ人物であり、イサクはそれを受け継ぐ息子、ヤコブはその孫です。
 この自己紹介、“かつて私はこの3人の神だった”と、この3人を過去の人物、既に死んだ人物として挙げていると理解することもできると思うのです。けれども、主イエスはそのようには受け取っていません。神とは「生きている者の神」だ。ならば、アブラハム、イサク、ヤコブも、「死んだ者」ではなく、今も「生きている者」なのだ、と受け取っています。「復活の時」がある。新しい命の世界がある。そこで、アブラハムも、イサクも、ヤコブも生きている。憩うている。楽しんでいる。主イエスが語る天国の話には、アブラハムが宴会の席で、ラザロという人物と一緒に楽しんでいる話もあるぐらいです(ルカ福音書16章)。
 神は「生きている者の神」として「復活の時」、新しい命の世界を、私たちに用意してくださっています。その命の世界、天国を信じることが、「聖書」の言葉を思い違いをせずに読み、「神の力」を思い違いをせずに受け取ったことになります。
 天国がどんなところなのか、詳しいことは私たちには分かりません。ただ、先ほどもお話したように、そこは私たちを愛する神の愛が満ち満ちている世界だということは間違いありません。だから、私たちは“神さまが最善にしてくださる”と信頼し、どんな夢や希望、慰めを描いても良い世界、それが天国だと私は信じています。
 天国に思いを馳せ、天に召された愛する人を偲ぶ今日、永眠者記念礼拝において、私たちは、愛と平和に満ちた天国を信じる信- [ ] 仰を新たにできれば幸いです。

 

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