坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年11月14日 主日礼拝説教  「人を差別せず、受け入れる神」
                       
聖 書  使徒言行録15章1~11節
説教者 山岡 創牧師
1ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 2それで、パウロバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 3さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。 4エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。 5ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
6そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。 7議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。 8人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。 9また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。 10それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。 11わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

「人を差別せず、受け入れる神」
 皆さんは、「軛」(くびき)というものをご存じでしょうか?軛というのは、牛や馬の首にあてる横木のことで、その横木に轅(ながえ)をつないで車や、農地を耕す犂(すき)を引かせる道具です。2頭の牛や馬の首に渡してかけるタイプの軛もあります。
 軛をかけられて車や犂につながれれば自由には動けなくなります。だから、軛という言葉には“自由を束縛するもの”という意味があり、軛を逃れると言えば、それは束縛から解放され、自由になるということです。人生、束縛や重荷を負っていない人はいないと思います。一人ひとり、自分の軛とは、そして軛からの解放とは何でしょうか?
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「それなのに、なぜ今、あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸(か)けて、神を試みようとするのですか」(10節)。
 エルサレム使徒会議の席上で、ペトロはこのように人々に訴えました。ペトロが言う「軛」とは、「割礼(かつれい)」という儀式のことであり、もっと言えば、その儀式を定めているモーセの慣習」(1節)、すなわち「律法」のことです。
 モーセはエジプトで奴隷だったイスラエルの人々を解放した立役者でした。そのモーセによって人々に与えられた神の掟が律法です。その掟の一つが「割礼」で、これはユダヤ人の男子が体に刻む“神さまに選ばれた民族”のしるし、“救い”のしるしでした。神さまに救われるためには、割礼のしるしが必要だ!律法と割礼を重んじるファリサイ派から宗旨替えをしてキリスト派の信者となった人々はそのように主張したようです。
 そのようなファリサイ派上がりのクリスチャンが、エルサレム教会からアンティオキア教会にやって来て、異邦人クリスチャンに「割礼を受けなければ、あなたがた救われない」(1節)と教えていました。そこにパウロバルナバが海外伝道から帰って来たのです。二人は、多くの異邦人に主イエス・キリストの救いを宣べ伝え、キリストの弟子としました。その際、二人は改宗した異邦人に割礼など強制しませんでした。
 キリストの救いに割礼は必要か?必要だ!、いや必要ない!‥‥「激しい意見の対立と論争」(2節)が生じました。このままでは埒(らち)が明かない。そこで、パウロバルナバほか、数名の代表者がエルサレムに上り、使徒や教会の長老たちと協議をすることになったのです。そして「議論を重ねた後」(7節)、ペトロが人々に訴えたのが、先ほどの言葉でした。「それなのに、なぜ今、あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは彼ら異邦人も同じことです」(10~11節)。律法を守り、行わなければ救われない、という教えは、ユダヤ人にとっても重荷であり、苦しみの元でした。主イエスの恵みによって救われるという福音(ふくいん)が、律法という軛から、苦しむ人々を解放したのです。そして、恵みによって救われるのは異邦人も同じです。
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 ところで、主イエス「恵み」とは何でしょうか?今日の御言葉(みことば)を黙想しながら、それは「軛」からの解放だと思いました。最近、『悪魔とのおしゃべり』(サンマーク出版、さとうみつろう著)という、おもしろいタイトルの本を読みました。働かずに遊んで暮らしたいと願う、みつろう、という大学生が、古本屋で『暗黒エネルギー入門』という本を買います。その本を読んで、すべての願いを叶える悪魔を呼び出そうと、みつろうは、床に魔法円を描いて“いでよ!”と叫びます。もちろん、悪魔など出てきません。ところが14年後、既に家庭もあり、脱サラして成功している彼のもとに“待たせたな”と、人形ぐらいの小さな悪魔が現れます。そして、“悪の手下になれ”と、みつろうを誘い、口車に乗ったみつろうは悪魔のレクチャーを受けることになります。
 “悪”とは、正しさを疑う行為だ。世界には“正しさ”が多すぎる。その正しさが、人に苦しみを与え、人を縛り、可能性を奪っている。そういう世間の正しさ、周りの人の正しさ、自分の内にある正しさを疑え。それが悪だ!‥‥悪魔はみつろうに教えます。
“えっ?それが悪なの?”この悪の内容、私たちが普通考える悪とは全く違います。私はむしろ、これってイエス様がユダヤ人社会で実行したことだよ、と思いました。
律法を守り、行う者が神に救われる。それがユダヤ人社会の絶対的な“正しさ”でした。この正しさを掲げて、律法学者やファリサイ派の人々は民衆を教える一方、律法を守らない徴税人(ちょうぜいにん)や遊女は最悪!病人や障がい者も律法違反の罪あり!律法に縁遠い生活をしている人々は救われない!と律法に反する人々を否定しました。主イエスもまた、疎外され、差別される側の人だったと思うのです。
 “律法とは本当に正しいものなのか?” 律法に苦しみながら、主イエスは疑ったに違いありません。そして“果たして神の御心とは?”と尋ね求める中で、律法の核心、それは行いではなく“愛”だ!ということを発見されたのでしょう。
自分の確信、“愛”に従って主イエスは行動しました。徴税人や遊女、罪人と目されている人々に寄り添いました。その行動は“律法違反だ!”とファリサイ派等から非難されました。そのため、主イエスは度々“サタンだ!”“悪霊の親分だ!”と罵られました。なるほど、この世の正しさを疑い、行動すると“悪”だと見なされます。主イエスは散々、悪魔呼ばわりされた揚句、最後には十字架に架けられて処刑されてしまうのです。
 けれども、“あなたは愛されている”との主イエスの言葉が、主イエスの行為が、律法という“正しさ”に苦しめられ、縛られていた人々を、どれほど安心させ、喜びと感謝を与え、自由に、生き生きと生きられるように変えたか分かりません。だから、主イエスの昇天後、ペトロら使徒たちが「主イエスの恵みによって救われる」と宣(の)べ伝えた時、その教えに食いつき、信じて救われた人が、エルサレムだけで数万人、おそらく十万人以上生まれたのです。それは多くの人が、律法という正しさに縛られ、“守らなければ救われない”という呪縛(じゅばく)にかけられ、苦しんでいたからにほかなりません。
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 主イエスは、律法という“正しさ”の軛からユダヤの人々を、行いとその結果こそ正義という軛から私たちを解放しました。その主イエスがなんと!別の軛につながれ、と私たちを招きます。えーっ!?せっかく軛から解かれたのに、また別の軛に縛られるなんて嫌だよ!と私たちは思うかも知れません。けれども、主イエスは言われます。「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28~30節)。
 社会には、私たちの周りには、また私たちの内には、正しさという呪縛の軛が少なからずあります。その軛を負わされ、私たちは“ねばならない”と思い込み、その正しさから外れることを恐れ、苦しみます。その正しさを疑い、捨て去り、自分の考えで、自由に、自分らしく生きる道へと主イエスは招きます。
 正しさを捨て去る。けれども、人生という道を歩くためには、やはり標識が必要です。今までの標識は間違っていたかも知れない。それに代わる新しい標識、それは“愛”です。愛に包まれて、愛が導く方向に歩む。愛し、愛されて生きる。主イエスの軛を負うとは、主イエスと“愛”でつながって、ここに愛はあるか?神への愛は、自分への愛は、人への愛はあるのか?と絶えず疑い、問いかけながら歩むことにほかなりません。

 

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