坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年12月19日 アドヴェント第4主日礼拝説教

   「別の道を通って」

聖 書 マタイによる福音書2章1~12節

説教者 山岡 創牧師 

占星術の学者たちが訪れる
2.1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2.2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝(おが)みに来たのです。」
2.3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2.4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2.5彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2.6『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者(ぼくしゃ)となるからである。』」
2.7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2.8そして、「行って、その子のことを詳(くわ)しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2.9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子(おさなご)のいる場所の上に止まった。
2.10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2.11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物として献(ささ)げた。
2.12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告(つ)げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

「別の道を通って」
 空に星は見えたかも知れません。でも、鳥が一羽も飛んでいない。そんな国、ガンバール国。この国では、国民のみんなが“がんばれ!”をスローガンに、仕事も、勉強も、スポーツも、生活もがんばっていました。でも、がんばっているのに、みんな、なかなか結果が出ません。そんなガンバール国に、ミサキは住んでいました。
 ミサキ、6時よ。ガンバって起きなさい。お母さんの声が響きます。お父さんだって、昨日、遅くまで飲んでたけど、ガンバって起きたぞ、とお父さん。そんなお父さんは、ガンバってきた会社のプロジェクトを、人事異動で他人に横取りされ、お母さんはダイエットをガンバったけど、三日坊主。ガンバって、いったい何になるの?なのに、ガンバれ!、ガンバれ!と言われる毎日‥‥そんな生活が嫌になったミサキは、家を飛び出し、電車に乗って、お隣りのガンバラン王国に向かうのです。
 ガンバラン王国は、国民のみんながガンバっていないのに、結果を出し、成功し、幸福度第1位の国でした。何が違うんだろう?そう考えながら歩いていたミサキは、道々9人の人と出会います。そして、自分の意思の力でガンバることには限界がある、やろうと思うことを続けるには習慣化するんだと教えられます。国王とも面会し、一人ひとり持っている自分の得意を生かし、その得意を交換し合って生きていけたら幸せ。不得意な分野で無理にガンバらずに済(す)むのではないか、と国王の苦労話と考えを聞くのです。
 そして、ガンバール国に帰って来たミサキは、“この国にはまだ伸びシロがある。未来がある”と、この国の人々の将来に、自分の人生に、希望を感じるのでした。
 これは、『がんばらない戦略』(アスコム、川下和彦著)という物語です。私は、今日の聖書の中で、12節の「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」という御言葉(みことば)から、ふと、この物語の主人公、生まれ変わったような気持でガンバール国に帰って行ったミサキのことを思い起こしました。
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 占星術の学者たちは、東の方からやって来て、救い主イエスを見つけ、礼拝し、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行」(12節)きました。彼らは、お生まれになった救い主に悪意を抱き、殺そうと企てているヘロデ王のもとに立ち寄らないようにするために「別の道」を使ったのです。けれども、「別の道を通って」というのは、単に地理的に、来た道と帰る道が違った、というだけの意味ではないと思います。
 「別の道」というのは、“人生の道”を変えたということ。つまり、生き方を変えた。生き方を変えようと志して歩き始めた、ということだと私は思うのです。
 がんばって、努力して、結果を出さなければ意味がない。負け組、ダメ人間、価値がない‥‥そんな価値観を刷(す)り込(こ)まれて、苦しく、辛(つら)い思いをしているようなところが私たちにもあります。それが信仰生活にも持ち込まれて、がんばって礼拝に出席し、献金し、奉仕し、人を愛さなければ、神さまから認められない。そんな思い違いをしながら、喜びや感謝、楽しみの薄い信仰生活を私たちは送っているかも知れません。
 たとえ行いと結果はなくとも、私たちは価値ある存在と認められ、無償で、無条件で神さまから愛され、大切にされている。この恵みが心に通ると、私たちの魂(たましい)から“がんばらなければ”という力みが抜け、人との比較や劣等感からも解放されます。そうなると、心に平和が宿り、自信を取り戻し、生き方が全く変わります。「別の道」とは、そのような生き方、神の恵みにゆだね、力を抜いた生き方だと言っても良いでしょう。そのような恵みをくださるために、イエス・キリストはこの世に来てくださったのです。
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 ところで、学者たちは、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」(11節)ました。この御言葉から、私はもう一つ、「別の道」について考えました。
 〈わが娘からの最大の贈り物〉、そんなタイトルが目に留まりました。日本基督教団が発行している冊子『こころの友』2021年10月号の1面に掲載されている、中村佐知さんという方の証(あか)しのタイトルです。
 中村さんはアメリカに留学し、結婚。4人の子どもに恵まれました。しかし、2015年に21歳になる次女の美穂さんが末期ガンにおかされていることが分かりました。中村さんは中学2年生の時、洗礼を受け、喜んで信仰生活を続けて来きました。その信仰が娘の病により根底から揺さぶられました。“神さま、なぜですか?”と悲しみから問い続けた中村さんでしたが、悲しみの形が少しずつ変わって来たといいます。
 娘の闘病生活を通して私が教えられたのは、神さまは私たちがどんな苦しみを通るときも共にいてくださること、そして神さまがくださる恵みは、必ずしも私が望むことと一致するとは限らないけれど、それでも信頼するに足(た)るものであるということでした。
 在宅で治療を受ける次女の世話をすることは、愛と祈りを彼女に注ぐ大切な時間でした。11カ月後、美穂さんは天に召(め)されていきました。中村さんは最後にこう言います。
 病に伏す娘をケアすることは、私たちから彼女への贈り物でしたが、同時に彼女から私たちへの聖なる贈り物でもありました。
 中村佐知さんの証しに感動しながら、私は、中村さんが美穂さんとお互いに贈り物を贈り合っただけではなく、神さまにも大事な贈り物を献げたのだと思うのです。それは、娘の病を治してほしいと願う望みでした。もう少し正確に言えば、自分の望みを神さまに叶(かな)えてほしい、叶えてくださるのが当然だと考える自分を中心とした人生のスタンスです。それを、神さま中心のスタンスにシフトした。神さまがくださるものは、たとえ自分が望むものではないとしても、信頼するに足る恵みであるという受け取り方に変えられたのです。中村さんは、自分中心の生き方を神さまに献(ささ)げ、神中心に、すべてを恵みと受け止める生き方を、神さまからの贈り物としていただいたのだと思うのです。
 学者たちは、黄金、乳香、没薬を「贈り物」として主イエスに献げました。それは、自分にとっていちばん大事な宝を献げたということです。「自分の体を神の喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12章1節)。この御言葉が私の内に響(ひび)いて来ました。いちばん大事な宝とは「自分の体」、それは言い換えれば、自分中心の考え方、生き方を献げて、神さま中心の思いを持って生活することだと思うのです。学者たちが歩き始めた「別の道」とは、そのように受け取ることもできると思うのです。
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 今日の礼拝で、井海研一(いかい・けんいち)さんが洗礼をお受けになります。それは、今までとは違う「別の道」を歩き始めるということです。神さまと共に、神さまを中心に、神さまの御心(みこころ)を尋(たず)ね求めながら、いただくものを恵みと感謝して生きる道を生き始めるということです。
 この道を既(すで)に歩いている人が、ここにもたくさんおられます。人生は喜びや楽しみばかりではありません。苦しみや悲しみ、困難が少なからずあります。けれども、私たちがどんな苦しみを通るときも共にいて、恵みと目的を備(そな)えてくださるお方のもとに何度でも立ち帰り、信頼して、この道を歩んでいけたら、この上なく幸いです。

 

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