坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2021年12月26日 主日礼拝説教

   「励ましに満ちた知らせ」

聖 書 使徒言行録15章22~35節

説教者 山岡 創牧師

使徒会議の決議
15.22そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロバルナバと一緒にアンティオキアに派遣(はけん)することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。
15.23使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。
15.24聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒(さわ)がせ動揺させたとのことです。
15.25それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
15.26このバルナバパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。
15.27それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。
15.28聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。
15.29すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞(し)め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎(つつし)めばよいのです。健康を祈ります。」
15.30さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した。
15.31彼らはそれを読み、励(はげ)ましに満ちた決定を知って喜んだ。
15.32ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ、
15.33しばらくここに滞在した後、兄弟たちから送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。
15.35しかし、パウロバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。

 

「励ましに満ちた知らせ」

「彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ」(31節)
 アンティオキア教会の信者たちは、エルサレム教会で取り決められた決定を喜びました。と言うのは、その決定の内容が励ましに満ちていたからです。
 人を悲しませ、落胆させ、場合によっては対立と争いを引き起こすような決定があります。それは、相手の気持や対象者の事情を考えず、その意見や現状を否定し、正そうとするか、切り捨てるような決定の場合です。そのような決定は何も生み出しません。
 それに対して、相手の気持や対象者の事情を考え、その意見や現状を受け止め、何か必要なことを加えながらも、基本的には対象者の意見や現状を生かしていくような決定をする。違う意見があっても、立場の強い者がそれを押し通さない。そのような決定こそが、人を励ますのだと思います。なぜなら、そこに“愛”があるからです。励ましに満ちた決定とは、言い換えれば、愛に満ちた決定ということでしょう。“愛しか勝たん”。教会とはそういう場所、そういう交わりだと私は思うのです。
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 割礼を受けろ、と言われるだろうか?アンティオキア教会の信者たち、特に異邦人の信者たちは、不安を抱きながら、エルサレム教会でどのような決定がなされるか、固唾(かたず)を飲んで待っていたことでしょう。割礼とは、ユダヤ人、ユダヤ教徒が、神さまに選ばれた者の証しとして体に刻(きざ)むしるしでした。「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」(15章1節)ファリサイ派から信者になったエルサレム教会のユダヤ人がそのように主張し、アンティオキア教会に行って、そのように教え、指導しようとしました。
 それに対して、同じユダヤ人でも、異邦人に直接伝道して、彼らをキリストの弟子としたバルナバパウロは、この考えに反対でした。両者の間に「激しい意見の対立と論争」(2節)が生じ、このままでは埒(らち)が明かない状況になりました。そのため、総本山とも言うべきエルサレム教会で、使徒たち、長老たちと協議をすることになったのです。両者が意見を述べ、議論を重ねた後に、使徒であるペトロが発言した言葉が、皆の心を静め、納得させたようです。あなたがたは、私たちユダヤ人でさえ、決して負いきれなかった律法という「軛(くびき)」を、どうして異邦人クリスチャンたちに負わせようとするのか。どうして割礼を受けさせ、律法の枷(かせ)をはめて縛ろうとするのか。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(11節)
 人は、律法、つまり“行い”によって救われるのではなく、「主イエスの恵み」によって救われる。無償で、無条件で、神に愛され、認められ、神の子とされている恵みを信じるだけでいい。それが、今までのユダヤ教とは違う、主イエスによってもたらされた救いでした。それによって、人は尊厳を取り戻し、自分を肯定し、安心して、感謝して、人を愛して生きていけるようになるのです。
 割礼は受けなくていい。協議の本題はそのように決定されました。ただ、ユダヤ人として長らく生きて来た生活の慣習は、そう簡単には変えられるものではありません。それで、ユダヤ人と異邦人の信者同士が、これからも交わりを持つために、律法で禁じられている食べ物と、みだらな行いを避けることだけが加えられて、この決定がアンティオキア教会の信者たちのもとにもたらされたのです。彼らの気持と、異邦人信者の現実を受け止め、生かすような決定の内容に、彼らがどんなに喜び、励まされたことでしょうか。この時に生み出された信頼と平和が、後々、エルサレム教会が経済的に困窮した時、異邦人の教会が援助するという助け合いを生み出す元になったと思われます。愛に満ちた決定は、愛に満ちた実りを生み出します。
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 教会は“正しさ”で物事を決定する場所ではない。特に、多数の人が支持しているからと言って、その正しさ(多数決)で決める交わりではありません。何がイエス・キリストの御心(みこころ)なのかをよく考え、愛に立って物事を決定するのが教会だと私は思います。
 私たちの坂戸いずみ教会は1992年に伝道所として始まりましたが、1996年に教会の共同墓地をつくりました。毎年、墓前礼拝を行っている、越生町の地産霊園にある墓地です。数百万円の建築費用がかかりました。
 当時、教会は、母教会である川越・初雁(はつかり)教会から、毎月10万円余りの支援を受けて経営されていました。また、教会の建物は一般の小さな中古家屋で、専用の駐車場が1台分さえない狭い土地でした。墓地に数百万円の費用をかけるより、初雁教会から受けている支援を少しでも減らして自立を目指すべきではないか。そうして、多くの人が集まることのできる新しい会堂を建築することを優先すべきではないか。そのような考えが私の中にありました。私の他にも、そのように考えた教会員がいたかも知れません。
 けれども、私たちの教会には、子どもを失って深い悲しみの中にある教会員がいました。その悲しみを共に悲しみ、支えようとする教会員がいました。その人たちが、安心して涙を流し、悲しみを素直に悲しめる場所がほしいと願っていました。その気持を考えた時、まず教会墓地をつくることが神さまの御心ではなかろうか、愛に適(かな)うことではないかと、私は考えを改(あらた)めました。教会墓地建設が会員協議会で話し合われ、決定し、実行の運びとなりました。
私は以前に、自分が正しいと思う筋道から愛のない決定をして、教会員を傷つけ、深く悲しませた失敗の経験がありました。その苦い経験が、教会とは何だろうか?と思いめぐらし、変わっていく土台となりました。
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 パウロが書いたコリントの信徒への手紙(一)12章12節以下に、教会はキリストの体であり、一人ひとりはその部分である、という内容が記されています。その23節に、こう書かれています。「わたしたちは、からだの中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。‥‥神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊(とうと)ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。教会とはこのように、苦しんでいる人、悲しんでいる人、弱っている人に配慮し、支え合い、苦しみと喜びを共にしながら生かし合っていく交わりです。強い者の意見が、また多数の人の考えが、常に優先されるような場所ではないのです。ここは、キリストの御心が尋(たず)ね求められる場所です。“愛”が優先される交わりです。
 励ましに満ちた決定、“愛”に満ちた決定がなされる教会。私たちは、そういう教会でありたい。そういう教会を目指したい。“愛”によって、共に進みましょう。

 

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