坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年1月16日 主日礼拝説教    「柔らかく生きる」                    
聖 書  使徒言行録16章1~5節
説教者 山岡 創牧師

 1パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 2彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 3パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授(さず)けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 4彼らは方々の町を巡回して、エルサレム使徒(しと)と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。 5こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。


「柔らかく生きる」

 “ミックス・ルーツ”という言葉をご存じでしょうか?これは、多様な国や文化にルーツを持つ人を表す表現です。多くの場合、以前には“ハーフ”と呼ばれ、最近では“ダブル”と言われる、違う国籍を持つ親同士から生まれた人のことを指すようです。
 人によって受け止め方が違うのでしょうが、ハーフという言葉が“半分”という意味なので、不快に響く人もいるようですし、ではダブルが良いかと言えば、それは“2倍”ということから、2ヶ国語が話せたり、文化的な経験値が高いかのように周りの人から見られ、過度に期待されることがプレッシャーになることもあるようです。そういったことから、ミックス・ルーツという言葉が使われるようになったのでしょう。
 けれども、言葉以上に大切なのは、その人に対する対話や態度なのではないかと思います。例えば、“日本語、上手ですね”と言われると、ミックス・ルーツの人の中には、日本育ちの人もいますから、何かモヤモヤを感じる人も少なくないようです。
 ミックス・ルーツという“色メガネ”でその人を見るのではなく、AさんはAさん、BさんはBさんと捉えるのが良いのではないでしょうか。これはミックス・ルーツの人に限りませんが、例えば私の場合、“牧師だから”というメガネで見るのではなく、“山岡創”という人間、人格として見る、といった感じです。もちろん、人にはその人を造り上げているルーツが何かしら必ずあるのですが、それを他人が自分勝手なレッテルで決めつけ、判断しないことです。難しい。でも、それって“愛”だなぁ、と思うのです。
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 テモテは、ミックス・ルーツの人でした。母親がユダヤ人、父親がギリシア人でした。ユダヤ人の考え方からすれば、ユダヤ教に改宗した人、あるいは両親のどちらかがユダヤ人の場合は、ユダヤ人と見なされるようです。その意味では、テモテはユダヤ人です。
 けれども、父親がギリシア人であったからか、ユダヤ人の証しである割礼(かつれい)を受けていなかったようです。割礼とは、ユダヤ人が神さまから選ばれた民族の証しとして体に刻むしるしであり、ユダヤ教の律法に割礼の掟が定められていました。
 とは言え、テモテはユダヤ人の母親と一緒にユダヤ教の会堂に、安息日毎に通い、神を賛美し、祈り、律法の教えを学んではいたのでしょう。そして、パウロバルナバが最初の伝道旅行で、リストラのユダヤ人会堂にやって来て、キリストの恵みによる救いを宣べ伝えた時、テモテは母親と一緒に、この恵みによる救いの教えを信じて、キリストの弟子となったものと思われます。
 その後、今日の聖書箇所に描かれているように、パウロが再度、リストラの弟子たちのもとを訪れた際、テモテは「リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人」(2節)に成長していました。しかも、今後、異邦人伝道をする上でも、ユダヤ人とギリシア人のミックス・ルーツであることは大きな強みになります。その様子を知ったパウロは、今後の伝道旅行に、ぜひテモテを連れて行きたいと思ったようです。
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 けれども、一つ問題がありました。それは、テモテが割礼を受けていない、ということです。そのことがユダヤ人に非難され、トラブルの元になる懸念がありました。
 パウロの伝道のやり方は、町々にあるユダヤ人の会堂に行って、キリストの救いを宣教する方法でした。だから、一緒に行くのはユダヤ人である方がベターです。とは言え、そこにはユダヤ人だけでなく、ユダヤ教に帰依(きえ)する異邦人もいました。キリストの恵みによって救われる。割礼を受ける必要はなく、律法は救いの条件ではない。その教えが異邦人には受け入れやすく、信じてキリストの弟子となる者が多かったのです。
 けれども、ユダヤ人の弟子の中には、異邦人も割礼を受けないと救われないと主張する者がいました。パウロはその考えに断固反対しました。そして、この議論はエルサレム教会で協議されることになり、その結果、使徒ペトロやヤコブの発言もあって、異邦人は割礼を受けなくていい、ということになったのです。
 キリストの恵みによる救いにとって割礼は必要ない。そのことを伝えるために、再度旅に出たパウロでした。ところが、その途中で、テモテには割礼を授ける。何だか矛盾している気がします。おい、パウロ!らしくないんじゃないの!と思うのです。
 けれども、評判が良かったとは言え、割礼を受けていないテモテに批判的な目を向けていたユダヤ人の弟子たちもいたのでしょう。そういうユダヤ人たちと衝突し、トラブルになることは避けたい、という思いがパウロにあったのではないでしょうか。
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 これは妥協ではありません。自分を曲げた、ということでもありません。何がいちばん大切かという優先順位を考えた上での相手に対する配慮だと思うのです。
 後に、コリントの信徒への手紙(一)9章19節以下で、パウロは次のように書いています。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。‥‥律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように‥‥‥弱い人に対しては、弱い人のように‥‥‥すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音(ふくいん)のためなら、わたしはどんなことでもします」。柔軟な発想、柔らかい生き方だと思います。
 キリストの恵みによって何人かでも救いたい。そのためには、相手の考えや慣習、生活スタイルを受け入れ、それに合わせて自分も同じようになる。キリストの恵みを信じる人がいるなら、それ以外のことは相手の気持に配慮すし、受け入れる。盟友バルナバとの苦いけんか別れを経験して、パウロはそのことを学んだのではないでしょうか。
 更にパウロは、ガラテヤの信徒への手紙5章6節で、こう語っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と。つまり、割礼はあっても良し、なくても良し、なのです。こだわる必要はないのです。だから、そんなことでユダヤ人の弟子たちの間に波風を立てるのはキリストの愛と平和にもとる。だから、テモテには割礼を授けたのではないでしょうか。
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 私たちは何を大切にして生きているでしょうか?本当にこだわらなければならないもの、守られなければならないものとは決して多くはないはずです。1月2日の礼拝で、ミッション・ステートメント、自分の内に自分の守るべき“憲法”をつくるという話をしました。その土台、原則となるものは、私たちにとってキリストです。キリストの“愛”です。キリストに愛され、自分も神と人と自分を愛する。キリストこそ、私たちの究極のルーツです。守るべき、従うべきはキリストの愛だけなのです。柔らかく生きるとは、そのルーツに立ち、守るべきものを見定めた上で、あとのことは相手の気持ちを考え、柔軟に対応しながら生きることだと思います。

 

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