坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年1月30日 主日礼拝説教   「心を開いて聴く」

聖 書  使徒言行録16章11~15節
説教者 山岡 創牧師

11わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、 12そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。 13安息日(あんそくび)に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。 14ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 15そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。


「心を開いて聴く」
 “神が置いてくださったところで咲きなさい”。ラインホールド・ニーバーという牧師の言葉を、シスターの渡辺和子さんが訳したものです。私たちには生活の場所があります。そこで思いがけず、自分が望んでいない環境や事態の中に置かれることがあります。落ち込んだり、愚痴や文句を言ったり、何かに当たったり、だれかのせいにしたくなることもあるでしょう。けれども、同時に私たちはそういった環境や事態に支配されず、そこで花を咲かせるかのような主体的な生き方をすることも可能なのです。
 パウロは、ローマの信徒への手紙10章17節で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と語っています。“聞く”ということには、その人の人生を変える大きな出会いと可能性が秘められています。そして、信仰は突き詰めると、私たちの生き方を、自己中心的な姿勢から、本当の意味で主体的な姿勢へと変える力になり得ます。
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 マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(9節)。2度目の伝道旅行に出発したパウロは、エーゲ海に面する小アジア(現在のトルコ)の港町トロアスで、助けを求めるマケドニア人の幻を夢に見ます。神さまに召されている。そう確信したパウロエーゲ海を渡り、初めてマケドニア州に、ヨーロッパに足を踏み入れます。そして、最初に向かったのはフィリピでした。
 フィリピはかなり大きな都市であったと思われますが、そこにはユダヤ人の会堂がなかったようです。そのため、パウロは祈りの場所があると思われる、郊外の川岸に行ってみました。そして、そこに集まっていた婦人たちにキリストの話をしました。
神に救われるために、ユダヤ人のように割礼(かつれい)を受け、律法を守る必要はない。神に認められるために、その条件として良い行いをする必要もない。この世界と私たちをお造りになった神さまは、どんな時でも、どんな人でも、その人を愛しておられる。無償で、無条件で、私たちを大切にしてくださる。必要としてくださる。生きる意味と目的を与えてくださる。それが神の救いの恵みであり、神の独り子イエス・キリストが、この恵みを、その言葉で、愛の行為で示してくださったのだ。
 リディアという婦人も、この話を聞いていました。そして、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(14節)といいます。
 パウロの話にリディアは心を開かれました。ハッとして、大切な何かに気づかされたからでしょう。それは彼女にとって、人生を変える出会いでした。その出会いを偶然と考えることもできますが、人生の不思議な導きと受け止めることもできます。「主が彼女の心を開かれた」というのは、この出会いを不思議な導きと受け止めている、神さまの導きと受け止めている、ということの表現なのです。
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 そこで彼女は、パウロの話を注意深く聞いたといいます。注意深く、とはどういうことでしょう。色々な聞き方が考えられますが、私は、自分の意見を挟まずに、相手の言葉を心に納め、受け入れたということではないかなぁ、と思うのです。
 ルカによる福音書10章38節以下に〈マルタとマリア〉という話があります。二人は姉妹であり、主イエスの伝道の旅を在宅で支援していたようです。二人の家に主イエスが立ち寄られた時のことです。姉のマルタは、主イエスと弟子たちの一行をもてなそうと、せわしく立ち働きました。一方、妹のマリアは主イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていました。忙しさでてんてこ舞いしていたマルタは、終(しま)いにブチ切れます。イエス様!妹の態度を何とも思いませんか!手伝うように言ってください!キィー!
 マルタの言い分はもっともだと思われます。けれども、主イエスは、心を乱しているマルタに、分かった、そうしよう!とは言われませんでした。かえって、心と生き方を整えるのに必要なことはただ一つだよ、とマルタを諭(さと)されたのです。
 神さまと向かい合う時、ただ一つの必要なこととは何でしょうか?それは、たとえ良かれと思っても、自分の意見、自分の考えを主張し、押し通さないこと。まず神さまの御心(みこころ)は何だろう?何が大切なのだろう?と考えてみること。そのために、神さまは私に何を語りかけておられるのだろう?と神の言葉を聞いてみることです。
 私たちは、人の話を聞く時に、“でも”と言ってしまうことが少なからずあります。良かれと思ってなのですが、“でも”と言って話の内容を、話の相手を否定してしまうのです。それは、自分の意見があり、考えがあるからです。議論ならば、それでいい場合もあります。けれども、心を開いて、というような、魂と魂を深く触れ合せるような話の場合、それでは相手の気持を、相手の真意を受け取ることができなくなります。批判せず、否定せず、黙って聞くこと。相手の気持を、真意を汲み取ることが必要です。
 神の言葉を聞く時も、取りあえず自分の意見、自分の考えは脇へ置く。“神さま、でも”と言わずに、まず神が自分に何を語りかけようとしておられるのかを素直に聞いてみる。そうすることによって、自分のことを神さまがどれほど愛しておられるか、という神の気持を、神の真意を汲み取ることができたなら、私たちの心に信仰が生まれます。
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 もう一度、注意深く聞いてみましょう。神さまは、“私”がどんな人間でも、どんな時でも、どんな境遇に置かれていても、“私”を愛しておられる。無償で、無条件で、私たちを大切にしてくださる。必要としてくださる。それは、“私”という一人の人間がどんな時も価値ある存在であり、この社会に必要な意味と目的を与えられている存在だという人生の真理を表しているのです。
 この真理が心に通ったら、自己中心的な生き方から次第に解放されます。徒(いたずら)に人を非難したり、否定したり、争ったりしなくなります。むやみに自分と人を比べて、落ち込まなくなります。周りの人や社会や環境のせいにしなくなります。周りの人や社会や環境に左右されず、自分は愛されて、価値のある、必要な存在であるという確信から、そういったものを受け止め、意味を見つけ、目的を持って働きかけるようになります。つまり、主体的な生き方へと変えられます。
 神の言葉を聞くことから生まれる信仰には、私たちの生き方を、このように主体的な姿勢に変える力があります。導きがあります。神の言葉に心が開かれない時もあります。ハッと心に響かない時も少なからずあります。それでも、聞き続けていればきっと、神の言葉との出会いがあります。愛と出会い、恵みと出会い、人生の真理と出会います。その出会いから、置かれたところで花を咲かせるような、主体的な生き方が始まります。

 

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