坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年2月6日 主日礼拝説教   「あなたも家族も」

聖 書 使徒言行録16章16~34節

説教者 山岡 創牧師

パウロたち、投獄される
16わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。17彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕(しもべ)で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」18彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。19ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。20そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。21ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。22群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭(むち)で打て」と命じた。
16.23そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。24この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷(あしかせ)をはめておいた。
25真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。26突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。27目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。28パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」29看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、30二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」32そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
33まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。34この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

 

「あなたも家族も」
 世界平和に貢献するためにはどうしたらよいのですか? カルカッタのスラム街で孤児やハンセン病患者といった人々のために尽くしたカトリックのシスター、マザー・テレサが、1979年にノーベル平和賞を受賞した時に、“もし、あなたがたが世界平和の燃える光となったなら、そのときノーベル平和賞は初めて、本当の意味でノルウェーの人々からの贈り物になるでしょう”とスピーチをしました。会場に列席していた記者がこれを聞いて、そのためにはどうしたら?と質問しました。その問いにマザー・テレサは答えました。“世界平和に貢献するためには、どうぞ今日は、うちに帰って、家族を大事にしてあげてください”
世界平和なんて言われると、グローバルな規模で何かできることを考え、行動することのように思うかも知れません。けれども、マザー・テレサは、家に帰って家族を愛すること、それが世界平和を実現する第一歩だと語ったのです。そして、家族を愛し、家庭に平和を実現することは“家族の救い”だと言っても過言ではないでしょう。
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「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。フィリピの牢獄の看守に、パウロとシラスはこう語りました。
二人は小アジア(現在のトルコ)からエーゲ海を渡り、ローマ帝国マケドニア州へ、ヨーロッパへと伝道の足を踏み入れました。そして、まずフィリピという都市で、郊外の祈りの場所に集まる人々にキリストの救いを話しました。
ところが、その場所に行くたびに「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16節)がついて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」(17節)と叫びます。パウロは、この女奴隷を憐れに思ったのではないでしょうか。(ちなみに、憐(あわ)れむとは上から目線の気持ちではなく、聖書では、自分のはらわたが痛むほどに相手の痛み苦しみに共感すること)なぜなら、この人たちは救いの道を宣べ伝えている、ここに救いがある、と叫びながら、この女奴隷自身は体を主人に縛(しば)られ、心は占いの霊に縛られて、信じて救われたいと願っても身も心も自由にはなれない状況にあったからです。
そこでパウロは、キリストの名によってこの女奴隷から占いの霊を追い出しました。少なくともその心だけは束縛(そくばく)の苦しみから解放したのです。けれども、主人に損害をかけたために二人は捕らえられ、投獄される羽目になります。
 ところが、その夜、大地震が起こりました。そして「牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖が外れてしまった」(26節)のです。この事態を見た看守は自害しようとします。けれども、パウロの言葉に、看守は自害を思いとどまります。そして、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、問いかけます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)。牢獄で賛美を歌い、祈る二人の姿に、看守は何かを感じていたのではないでしょうか。その問いかけに二人が答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)と。
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 看守とその家族はパウロからキリストの救いを聞き、皆すぐに洗礼を受けました。洗礼とは、主イエス・キリストの恵みによって救われていることの動かぬしるし、信仰の証(あか)しです。自分も、そして家族も、主イエスを信じて洗礼を受けるなら、「あなたも家族も救われます」という言葉は、最もシンプルに、ストレートに実現しています。けれども、私たちが自分の家族のことを考えてみると、そのように単純に行かないのが現実でしょう。日本はキリスト教社会ではありませんので、家族の中で自分一人がクリスチャンというケースも少なからずあります。家族に信仰を持ってほしいと願っても、簡単にはいきません。そのような場合、家族が救われている、とは言えないのでしょうか。
 もちろん家族が皆、信仰を持って洗礼を受けることは、家族の救いの最終目標かも知れません。けれども、それだけが家族の救いではない、と思うのです。自分自身が主イエスの恵みを信じて救われる。行いや結果によらず、どんな時も、どんな自分でも、主イエスに愛され、父なる神から我が子として大切にされている。つまり、掛け替えのない、価値ある、必要な一人の人間だと自分を信じるのです。神の愛によって自分を信じることができたら、私たちは変わります。愛されて生きていることが嬉(うれ)しくなります。笑顔になります。平安になります。徒(いたずら)に人と自分を比べて思い上がったり、落ち込んだりしなくなります。むやみに人を否定しなくなります。自分の利益ばかり考えなくなります。相手のことを思いやるようになります。話を聞くようになります。手を差し伸べるようになります。そしてそのように、私たちが家族を愛するように変えられたら、そこに“小さな平和”が実現し、それによって家族が救われていると考えることもできるのではないでしょうか。
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 では、家族を愛するとは具体的にはどういうことでしょうか?もちろん、それぞれの家族構成や事情によってケース・バイ・ケースなので、“愛”という原則に基づいて、どうするか自分で考えなければなりません。一つの例ですが、『7つの習慣』(スティーブン・コヴィー著、キングベアー出版)という本の中に“信頼残高”という話がありました。相手との信頼関係という口座に、愛を預金し、貯金を増やすという話なのですが、例えば親子関係で、自分の息子に“部屋を掃除しろ。シャツが出てるぞ。ステレオの音を小さくしろ。勉強をちゃんとしろ”と言い続けたら、その関係はどうなるか。口座は引き出されるばかりで、貯金はむしろマイナスになります。もしも息子が重大な問題を抱えているとしても、信頼関係がないため、十分なコミュニケーションができず、必要な支援ができません。高い信頼関係を築くためには、愛を預金し、信頼残高を増やすこと。“例えば、彼の趣味に関係する雑誌を買って帰るとか、宿題を一緒にするとか、あるいは一緒に映画を見に行き、その後で一緒に食事をするとか。多分最も大切な預け入れは、説教をせず、自分の自叙伝も挟まず子供の話を聞くことだろう。‥‥‥子供は初めのうちは反応を示さないだろう。あるいは疑うかも知れない。「親父は何をたくらんでいるんだ。おふくろは今度はどんな手を使おうとしているんだろうか」と。しかし、誠心誠意の預け入れを続ければ、信頼残高が増え、残高不足の額は徐々に縮小していくことになる”(上掲書272頁)とコヴィー氏は言います。このように、家族の間に信頼関係という平和を築いていくことができたら、それは家族の救いと言ってもよいのではないでしょうか。
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 もし私たちが、そうしなければならない、と自分を無理に強制するのではなく、神の愛を信じ、感謝して、愛によって自然に変えられていき、愛することが必要だとその大きな意味を自覚して家族の中で振る舞うならば、家族の方々はきっと何かを感じ、何らかの影響を受け始めるに違いありません。はっきりと、すぐには結果に結び付かないかも知れません。時間がかかります。忍耐が必要です。おそらく愛は“一生涯のもの”でしょう。でも、その結果はきっと、その努力に値します。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。この御言葉の広く、深い可能性を信じて、信仰と愛の生活を始めたい、その歩みを続けたいと願います。その結果として、もし家族が信仰を持ち、洗礼を受けるようになったなら、神がそうしてくださったと、私たちは神を賛美するでしょう。

 

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