坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

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  • 2022年2月13日 主日礼拝説教  「地上の市民権、天国の市民権」

聖 書 使徒言行録 16 章 35~40 節 
説教者 山岡 創牧師

35朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。36それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」37ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打(むちう)ってから投獄したのに、今ひそかに釈放(しゃくほう)しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」38下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、39出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。40牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。

 

「地上の市民権、天国の市民権」

 “またお会いしましょう。国際都市・天国で”。栃木県にキリスト教の精神をベースにしたアジア学院という学校があります。主にアジアやアフリカ出身の入学者に、農業技術を教え、また帰国して農村の指導者として貢献するための教育を提供する学校です。私も何度か行ったことがあり、この学院を会場に研修会を開催したこともありました。
 私がまだ神学生だった時のことです。当時、私が所属していた川越市の初雁(はつかり)教会に、アジア学院の学生をホーム・ステイに招くことになりました。日曜日を挟(はさ)んで2泊3日のホーム・ステイ、早稲田にある日本基督教団の本部まで、私がその学生を迎えに行きました。おいでになったのはスリランカ出身のギンティング・フィルマンという人で、40歳ぐらいの方だったように思います。フィルマン先生は牧師で、日曜日の礼拝に出席し、礼拝後に英語でスピーチをされました。その時から約30年がたった今も、私は、フィルマン先生の最後の言葉が深く記憶に焼き付いています。“この地上で皆さんと再びお会いすることはないでしょう。けれども、またお会いしましょう。国際都市・天国で”
 人種も民族も、言葉も文化も、あらゆる違いが受け入れられる天の国に自分は属している。国籍を持ち、市民権を与えられている。そのように信じているからこそ言える、とてもすてきな別れの挨拶でした。
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 「あの者どもを釈放せよ」(35節)。フィリピを治めているローマ帝国の高官たちは、下役を差し向けて、パウロとシラスを釈放しようとしました。二人は、フィリピで伝道していましたが、その際に、女奴隷から占いの霊を追い払い、彼女の心を解放しました。ところが、その女奴隷の主人が、占いで金儲(かねもう)けができなくなり、怒って、パウロとシラスを騒乱罪で訴えたのです。そのため二人は鞭で打たれ、牢に投獄されていました。
 しかし翌朝、二人は釈放されることになりました。二人のしたことが、ローマ帝国の法に触れるような事柄ではなかったからでしょう。高官たちにはそう分かっていながら、立ち騒ぐ住民の手前、鎮(しず)めるために取った措置だったかも知れません。
 ところが、パウロはこの釈放に納得しませんでした。ローマ帝国の役人として、それでいいのか?我々はローマ帝国の市民である。その市民を、あなたがたは裁判にもかけず、公衆の面前で鞭打ち、投獄したではないか。これは我々の持つ市民権の侵害であり、ひいてはローマ帝国の法を犯したことになるのではないか。我々はこのことをローマ皇帝に訴えはしないが、せめて町を治めているあなたがたが直接出向いて、我々に謝罪し、礼をもって釈放すべきである。
 これを聞いたフィリピの高官たちは、自分たちの責任問題になることを恐れて、「出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出ていくように」(39節)頼みました。これ以上の住民とのトラブルは避けたかったからでしょう。
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 ローマ帝国の市民権。それはローマ法の下に、市民集会における選挙権と被選挙権、結婚する権利、所有する権利、裁判を受ける権利、ローマ軍の兵士になる権利などが保障され、人頭税や住民税などの税金も免除されていました。この市民権を持つ者は、ローマ帝国領内で法的に保護され、安心して生活することができたのです。
 今日の御言葉を黙想しながら、私はふと“クリスチャンの市民権”なるものを連想し、考えました。私たちは、この地上においては日本の国籍と、市町村民としての戸籍を持ち、日本国憲法によって国民としての権利を保障されています。そのような視点で考えると、クリスチャンとはどのような市民権を持ち、権利と安心を保障されているのでしょうか?
 私たちが、主イエスの恵みによる救いを信じて洗礼を受けると、通常、洗礼式が行われた教会の会員となり、その教会に“信仰の戸籍”を持つようになります。言わば、一つ一つの教会は、天国という国に属する市町村のようなもので、私たちは、例えば“坂戸いずみ教会”に籍を置き、教会員としての権利を保障されるわけです。
 では、教会員としての権利とは何でしょうか?そんなこと、あまり考えたことがないかも知れませんが、まず主イエス・キリストの命である聖餐(せいさん)にあずかる権利を与えられます。主イエスがご自分の命を懸(か)けて私たちを愛し、その罪を赦(ゆる)し、安心して生きられるように、また天国に迎え入れられる希望を与えてくださいました。その救いを保障するのが、主イエス・キリストの命を象徴する聖餐です。今はコロナ禍のために思うように聖餐式を行うことができませんが、私たちは、聖餐を受ける度(たび)に、自分の救いが保障されていることを確認し、更新(アップデート)するわけです。
 そして、もう一つの主な権利は、教会総会に参加して、教会の運営に関する重要な事柄を議決する権利です。教会の規則を定め、運営方針を協議し、財政予算を決定し、教会役員を決める選挙権、被選挙権を持ち、更に牧師を選び、また罷免することを決定する権利を、教会員であるお一人お一人が与えられているのです。
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 そして、もっと大きな権利は、教会に信仰の戸籍を持つことによって、天国に国籍を持ち、“天国の市民権”を与えられるようになるということでしょう。天国の市民権って、何でしょう?改めて考えてみました。
 その一つは“再会の権利”かな、と思います。私たちは地上で“別れ”を経験します。愛する人との死別を味わいます。それは深い痛み、悲しみになることがありますし、もう一度会いたいと強く願う相手もいるのではないでしょうか。私たちは、そのように分かれた人と再び会うことができる。フィルマン先生が“またお会いしましょう。国際都市・天国で”と言われたように、天国で再会の喜びを味わうことができる。それは、とても大きな信仰による権利です。
 信仰を持たず、洗礼を受けなかった人と再会することはできないのでは?と思われるかも知れません。でも、すべての人が、生きている時だけではなく死んだ後にも、天国に迎え入れられるチャンスはあると、私は聖書を通して信じています。神さまは、洗礼を受けたかどうかだけで分け隔(へだ)てをするような、ケチな根性のお方ではありません。
 そして、もう一つは“愛される権利”ではないかと思います。条件なしに、愛され、大切にされる権利です。地上では、ともすると私たちは、善い行いをしなければ、良い結果を出さなければ、良い子でいなければ、認められない、愛されないと思い、肩に力を入れ、焦り、落ち込み、また他人のこともそのように評価しながら生きているところがあります。でも、天国ではそうではない。どんな人も条件なしで神さまに愛され、互いに愛し合います。その愛の権利を体現するのが、天国の市町村である“教会”です。
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 釈放される二人に、看守は「安心して行きなさい」(36節)と言いました。法的な犯罪の疑いは晴れたから安心していいという意味で、看守は平安を告げました。けれども、人の魂(たましい)の安心は法によって保障されるものではなく、神の愛によって保障されるものです。神の愛は、私たち一人ひとりに、条件なしに愛されている、掛け替(が)えのない存在価値を私たちに保障します。教会は、この条件なしのキリストの愛の下に、私たちが互いに愛し合う交わりの場所です。この場所から、私たちは本来の意味で「安心して行きなさい」(ルカ8章48節等)とキリストに送り出されて行くのです。

 

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