坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  • 2022年2月20日 主日礼拝説教  「別の王、魂のマスター」
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  • 聖 書 使徒言行録17章1~15節
  • 説教者 山岡 創牧師
  • ◆テサロニケでの騒動
    1パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。2パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、3「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。4それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。5しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲(おそ)い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。6しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒(さわ)がせてきた連中が、ここにも来ています。7ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背(そむ)いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」8これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。9当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。
    ◆べレアで
    10兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。11ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。12そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。13ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動(せんどう)し騒がせた。14それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。15パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

  • 「別の王、魂のマスター」
     “わたしの心の王座に、主イエス・キリストをお迎えすることができますように”。既に天に召された方ですが、私たちの教会に、Mさんという教会員がおられました。この教会の始まりとなったSさん宅での家庭礼拝に出席されていた方々の中で、最初に洗礼をお受けになった方でした。60歳を過ぎてから礼拝に出席し、受洗されたMさんは、しばしば主イエスの〈ぶどう園の労働者〉のたとえ(マタイ福音書20章)を引き合いに出され、言わば自分は夕方5時から1時間働いただけで(=人生晩年の信仰生活)、朝から働いている人と同じ1日分の労賃である1デナリオンの恵み(=年数に関係のない救いの恵み)をいただいた者だからと謙遜され、その分、神さまの恵みに応(こた)えないと、と礼拝に、夕礼拝に、また祈祷会に熱心に出席し、また奉仕をされました。
     そんなMさんが、いつも祈りの度に祈っていた言葉が、先ほどの願いでした。“わたしの心の王座に、主イエス・キリストをお迎えすることができますように”。私は、自分のような者を無条件で愛し、救ってくださったイエス・キリストを、私の救い主と信じ、私の心の王座に王としてお迎えし、仰(あお)ぎ、従って行く。その願いを、Mさんがいつも、感謝と共に祈っておられたことを思い出します。
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     「彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」(7節)。テサロニケのユダヤ人たちは、パウロとシラスをそのように、町を治めている当局者に訴えました。二人は、フィリピから移動して来て、テサロニケにあるユダヤ人の会堂で、主イエス・キリストの恵みによる救いを宣べ伝えました。聖書を引用し、人々の罪を負い、償(つぐな)うために苦しみを受け、神の力によって復活するメシア(=キリスト、救い主)は、主イエスであると論証したのです。その言葉を聞いたユダヤ人の一部の人たち、また神をあがめる多くのギリシア人や婦人たちが、信じて二人に従いました。おそらく信じたユダヤ人のうちの一人がヤソンで、彼らは会堂からヤソンの家に移り、そこで主イエス・キリストを礼拝するようになったと思われます。
     ところが、二人の言葉を受け入れようとしないユダヤ人たちは、それをねたみました。そして、暴動を起こし、町を混乱させ、その騒ぎに乗じてヤソンの家を襲い、パウロとシラスを引き出そうとしたのです。二人は見つかりませんでしたが、ユダヤ人たちは、ヤソンら数名の信者を町の当局者のところに引き立て、訴えた理由が先ほどの言葉です。彼らはローマ皇帝をないがしろにして、別の王を立てようとしている。これはローマ帝国に対する反逆罪である!と。宗教上の理由で訴えても、法的には帝国の役人に相手にされないことを彼らは知っています。だから、政治的な反逆罪だとでっち上げて、クリスチャンを罰してもらおうと企てたのです。彼らはその後、べレアでも同じように二人を迫害しています。
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     もちろん、パウロやシラス、またテサロニケで信者になった人々に、そのような反逆の意図があろうはずがありません。けれども、ユダヤ人たちが「イエスという別の王がいる」と訴えた言葉は、奇しくも違う意味では当たっています。クリスチャンにとって、主イエス・キリストは、確かに「王」なのです。
     主イエスの弟子にナタナエルという人がいましたが、彼は自分の心の奥底を見抜いた主イエスに向かって、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ福音書1章49節)と叫びました。
     とは言え、主イエスは、この世にある現実の王国の王ではありません。十字架刑に処せられる直前、ユダヤ総督のピラトから取り調べの席で尋問された時、主イエス「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18章36節)とお答えになりました。主イエスが語られた神の国は、この世の政治的な王国ではなく、信じる人の心の内に成立する王国であり、人と人の心が信仰と愛によってつながれた時、その交わりの中に成立する目には見えない国なのです。だから、主イエスを信じる人は、主イエスを“王”として自分の心に迎えます。
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     では、主イエスを自分の心の王として信じ、迎えるということは、主イエスとどのような関係になることでしょうか?私たちがどのように生きることでしょうか?
     主イエスがご自分のことを“王”として語っているたとえ話で、主なものが二つあります。一つは、〈仲間を赦(ゆる)さない家来〉のたとえ(マタイ福音書18章21節~)です。王様に1万タラントンの借金をしている家来が出てきます。現代の日本で言えば6千億円ぐらい、考えられないような金額です。どんなにがんばっても返せない。憐(あわ)れに思った王様は、この家来の借金をすべて帳消しにして赦すのです。これもまた信じられないような寛大さです。ところが、この家来は赦された直後、自分が100デナリオン貸している仲間に出会います。決して小さな額ではありませんが、自分が赦された金額の60万分の1です。けれども、この家来は仲間を赦さず、牢に入れてしまいます。それを知った王は、この家来にお怒(いか)りになる、という話です。
     もう一つは、〈すべての民族を裁(さば)く〉という話(マタイ25章31節~)です。神の国が実現する時、その王座に主イエスが座ります。そして、すべての人をお裁きになります。その際、自分の周りにいる苦しみ、悲しみ、困っている人を助け、愛した人は、主イエスを愛したのと同じだとして神の国に迎えられます。しかし、それらの人を助けず、愛さなかった人は、永遠の火に入れと告げられるのです。
     これら二つのたとえ話が語りかけていることは、主イエス・キリストが、条件なしに私たちを愛し、自分ではどうにもできないような罪を、心のゆがみや醜(みにく)さを、赦してくださっているという恵みです。愛され、赦され、安心して生きることができる恵みです。そして、その恵みを信じて、心に受け入れたなら、その恵みに応えて、あなたも人を愛し、人を赦すことが求められているのです。
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     主イエスを自分の心の王として迎え、信じること。それは、主イエスの力に支配され、嫌々ながら従うことではありません。主イエスの愛に包まれ、赦され、温かい気持になることです。言い換えれば、自分本来の掛け替えのない存在価値を、意義を、必要性を、人と比べずに、どんな時も信じて生きることです。私たちの存在価値は、十字架に架かり、私たち一人ひとりの罪を償(つぐな)われた主イエスの命と同じ重み、“王”の命と同じ重みのあるものなのです。そして、愛されているゆえに、自分の周りの人を愛して生きることです。愛するとはどうすることか?それを考え、実践して生きることです。自分がいただいた愛と安心を、人にも与えて生きることです。
     愛せない時もあります。あの家来のように、つい人を赦せない時もあります。それが私たちです。だからこそ、“わたしの心の王座に、主イエス・キリストをお迎えすることができますように”と祈る祈りが大切なのです。その祈りを忘れずに、愛に立ち帰り、神を愛し、自分を愛し、そして人を愛する道を歩んで行きましょう。

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