坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  • 2022年2月27日 主日礼拝説教  「人が造る神、人を造る神」
  • 聖 書 使徒言行録17章16~29節

  • 説教者 山岡 創牧師
  •  

    アテネ
    16パウロアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨(ふんがい)した。17それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。18また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。19そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。20奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」21すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝(おが)むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至(いた)るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
    28皆さんのうちのある詩人たちも、

  •  『我らは神の中に生き、動き、存在する』

  •  『我らもその子孫である』と、

  • 言っているとおりです。29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技(わざ)や考えで造(つく)った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

    「人が造る神、人を造る神」
     教会の前の県道バイパスを西に向かうと、すぐに高麗川に差し掛かります。そこに架かっている橋は粟生田(あおだ)大橋と言いますが、その橋のたもとに2体の地蔵菩薩が祭られています。たぶん橋の守り神だと思います。時々、そのお地蔵さんに向かって手を合わせ、祈っている人の姿を見かけます。
    昨日、散歩がてら、そのお地蔵さんにお名前がないかと見に行きました。名札のようなものがないかと探してみましたが、ありませんでした。今日の聖書にあるように、まさに「知られざる神」(23節)でした。
     現代日本無宗教の人が多いと言われます。お葬式も仏式で行わない人も増えて来たように思われます。とは言え、至るところに神社やお寺があり、仏像やご神体が祭られています。粟生田大橋のたもとのようにお地蔵さんが祭られている場所も数知れません。そういったものに向かって、素朴に、真剣に手を合わせ、祈っている人もいるのです。そのような人の姿を、単純に“偶像礼拝だ!”と否定する気にはなれません。現代における偶像礼拝とは何か?それを、私たち自身の信仰の問題として考えることが大事です。
             *
     「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」(23節)。アレオパゴスと呼ばれる、アテネの評議会の席上で、パウロはこう語りました。おい、パウロ!ずいぶんと失礼なことを言うじゃないか、と思います。言われたアテネの人々は、カチンっと来たに違いない。けんか腰(ごし)とも思えるような挑戦的な態度でパウロがアレオパゴスの人々に対しているのは、アテネ「至るところに偶像があるのを見て憤慨した」(16節)からです。
     ユダヤ教の信仰では、律法という掟(おきて)を学ぶ時、まず「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6章4節)と唱えます。神は唯一のお方です。そして、律法の中心である十戒には、「あなたはいかなる像も造ってはならない。‥‥‥あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4~5節)と偶像礼拝の禁止が定められています。形にすることができない唯一の神を信じる信仰の伝統に生きて来たパウロにとって、至るところにギリシアの神々の偶像が祭られている様子は、あり得ない!と怒りを呼び起こす要因だったのです。
     それでも、パウロは最初、怒りを抑え、アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」(22節)アテネの人々を立て、冷静に語り始めます。パウロアテネの人々に訴え、説得しようとしていること、それはつまり、人が神を造るのではなく、神が人をお造りになったのだ、ということです。神とは「世界とその中の万物(ばんぶつ)とを造られ」(24節)「人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」「天地の主」(24、25節)である。だから、人が「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えては」(29節)ならないのです。人が造った像の中に、神さまは宿ってはいないのです。
             *
     偶像礼拝。日本の社会にも同じような要素があります。もしパウロ現代日本にいたら、同じように語ったかも知れません。けれども、私たちは、偶像礼拝という視点で日本社会を批判するよりも、その観点から、まず自分自身の信仰を見つめ、吟味(ぎんみ)することが大事であり、必要なことだと思うのです。
     私たちクリスチャンは、偶像礼拝なんてしないよ。現に父なる神さまやイエス・キリストの像なんて造っていないし‥‥と思われるかも知れません。確かにそのとおりです。私たちは、金や銀や石で、目に見える形の偶像は造らないでしょう。でも、偶像とはそれだけではありません。私たちは、自分の心の中に偶像を造ってしまうことがあると思うのです。目には見えない、形にならない偶像の神を心の中に造ってしまうのです。
     それはどういうことかと言えば、私たちはともすると、自分の考えや価値観、願望や好き嫌いを投影した神さまを自分の心の中に造ってしまうのです。つまり、神さまを自分に都合よく思い描くのです。そして、それが神さまだと思い込み、自分が有利になるように、利益になるように信じようとする。自分の考えややり方を、“神さまはそのように考え、願っておられる”と信仰(しんこう)的に自分を正当化する。そして、返す刀で相手を認めず、否定するのです。信仰でいちばんたちが悪いのは、この自己正当化、独善だと思います。別の言い方をすれば、自分自身が偶像の神になってしまうのです。
     ロシアが遂にウクライナに侵攻(しんこう)しました。この戦争に関わっている多くの人がロシア正教のクリスチャンではないかと思います。ウクライナに侵攻することは、世界とその中の万物を造られた神の御心(みこころ)だったのでしょうか?決してそうは思いません。聖書が指し示す神は、愛と平和の神です。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、‥‥彼らの居住地の境界をお決めになった」(26節)のです。すべての民族を平和に住まわせるためです。ロシアにも平和を祈り求める人々がいると思います。けれども、そのような人々は弾圧され、平和が踏みにじられるような行動が取られている。自分の心の中に、自分が造った偶像の神がいるからです。
             *
     本来の信仰、本物の信仰とは、そうではありません。むしろ、“自分は間違っているかも知れない”と自分を見つめ直します。天地を造り、私たち一人ひとりをお造りになったのは神さまです。だから、“私”のことをお造りになった神さまが、何を考え、何を“私”に求めておられるか、神の言葉に真摯(しんし)に、謙遜(けんそん)に耳を傾け、汲み取ろうとするのが本当の信仰です。神の御心を誠実に受け止めたら、時には自分を正当化できないことがある。いや、少なからずあります。自分の間違い、誤り、失敗を認めるのは嫌なことかも知れません。けれども、神さまと向かい合う気持で、それを認め、赦(ゆる)しを祈り、悔(く)い改めていく。その勇気、誠実、愛こそが、心の偶像礼拝を廃する、まことの信仰なのです。
    そして、そのような信仰があれば、互いに愛し合うことが可能になっていく。お互いに、神さまに愛され、造られた人間同士として、認め合い、理解し合おうとして、お互いの利益を求め、豊かな信頼、平和な関係の実りが生み出されていくに違いありません。
    天地を造り、私たちを造られた神を信じる。それは、自分の心の偶像を廃し、愛と平和を実現するために生きることです。うまくいかず、自己正当化し、対立し、争ってしまうこともあるでしょう。私たちは罪深い人間です。それでも、思い直して悔い改め、愛と平和の道に立ち帰り、たゆまずに歩みたいと心から願います。身近なところから、小さなことから、それを意識して始めましょう。

  •  

リンク