坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  • 2022年3月6日 受難節第1主日礼拝説教 
  •      「心の方向転換」        

聖 書 マルコによる福音書1章9~15節
説教者 山岡 創牧師
9そのころ、イエスガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた。 
10水の中から上がるとすぐ、天が裂(さ)けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 
11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。
12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
 13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
14ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音(ふくいん)を宣べ伝えて、 
15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


「心の方向転換」
 3月2日は、キリスト教の暦では〈灰の水曜日〉と言い、この日から〈受難節レント〉と呼ばれる期間が始まりました。“受難”と言えば、それは主イエス・キリストが十字架に架(か)けられ、処刑された出来事です。そして、主の十字架を特に意識し、その意味を黙想する時が受難節だと言うことができます。


  あなたもそこにいたのか 主が十字架についたとき 
あぁ今、思い出すと 深い深い罪に わたしはふるえてくる


 讃美歌21・306番の1節です。皆さんは、主イエスの十字架を考えた時、このようにお感じになったことはあるでしょうか?もちろん、現代(の日本)人である私たちが、2千年前のユダヤで行われた主の十字架刑の場所に、いるわけがありません。その意味では、主の十字架刑と現代人の“私”は直接、何の関係もありません。
 けれども、もしも“私(たち)”が2千年前の十字架刑の場所に“居た”としたら‥‥弟子たちのように逃げたかも知れない。群衆のように“十字架につけろ”と叫んだかも知れない。議員たちのように、主イエスを捕らえ、裁き、処刑したかも知れない。つまり、2千年前に、無実の主イエスを十字架に架けた人々と同じような卑怯(ひきょう)な心、保身の思い、主体性がなく周りに同調するような態度、ねたみ、自分を絶対化する独善、自分と違う相手を否定し、排除する身勝手さ‥‥そういった心の思いが、私たちの内にもあるのではないか、ということです。そしてそのように、自分の内側を見つめてみた時、わたしもそこにいた、と感じる。自分の深い罪に心がふるえるかも知れません。
 けれども、受難節レントは、自分の深い罪を見つめるだけの時ではありません。讃美歌21・306番の5節は歌います。


  あなたもそこにいたのか 主がよみがえられたとき
  あぁ今、思い出すと 深い深い愛に わたしはふるえてくる


 自分の深い罪に気づき、傷ついて終わるのではない。そんな自分に注がれている神の深い愛に心を留める。よみがえられた主イエス・キリストが、“あなた(がた)に愛と平和があるように”と私たちの心に語りかけてくださる。その深い愛に気づいたら、私たちの心は、喜びと感動にふるえるのです。立ち直れるのです。
 深い罪の恐れから、深い愛の喜びと感動に私たちの心が変えられる。それを「悔い改め」と呼ぶのです。
       *
 ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」(14節)始めました。主イエスヨハネから洗礼をお受けになったわけですから、言わばヨハネは主イエスの“師匠”であると言うことができます。
 けれども、主イエスが宣べ伝えた「神の福音」は、ヨハネが宣べ伝えたものを受け継いだのではありません。特に1章4節に記されているヨハネが宣べ伝えた「悔い改め」と、主イエスが語った「悔い改め」(15節)は、実は全く違う内容なのです。
 ヨハネが伝える「悔い改め」とは、詰まるところ、“自分の力”で神の救いを勝ち取れ、ということなのです。神の言葉によって自分の罪を自覚せよ。そして、自分の罪に気づいたら、神の掟である律法を行うことによって、罪を無くし、善を行い、神に認められる人間となるように。ざっくり言うならば、それがヨハネの悔い改めです。
 けれども、主イエスは、人の心と神の救いのご計画を、もっと深く見つめておられました。ヨハネから洗礼を受けられた後、おそらく主イエスは荒れ野にあるヨハネの教団に身を投じ、そこで信仰生活を過ごされたようです。その時、人は果たして律法の行いで、自分の力で救われるのか?と深くお悩みになったのではないかと思われます。
神の御心(みこころ)を思い、律法によって善い行いをしようとする姿勢は大切である。けれども、天地創造の初めに神に造られた人・アダムが罪を犯して以来、それができないのが人間ではないのか?ならば、罪の心と行いを自分の力で改めることができない人間は、神に救われることは、愛されることはあり得ないのか?いや、そうではない。天地創造の初めから、神は、ご自分がお造りになった人間を、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)として愛しておられるのだ。
 主イエスは、この神の心にお気づきになったのです。ご自分だけではない、神に造られたすべての人が、神の「愛する子」だとお気づきになったのです。だから、神に愛されるために行いは条件ではない。善い行いをして“良い子”にならなくていい。良い子を演じなくていい。たとえ罪深い者であっても、神はすでに最初から、自分たち人間を愛しておられるのだ。だから、救いのために必要なことは、神に愛されていることに気づくこと、神の愛に信頼すること、もし自分に罪があると認めた時には、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈ること、どんな時も愛されていることを信じて、感謝して生きていくこと。「神の福音」とはそれだ!と神の御心を発見されたのです。つまり、神の救いとは、“自分の力”で行いという結果を積み上げ、それによって神に認められる生き方ではなく、条件のない、無償の神の愛に気づいて、信頼する“信仰”によるものだと受け止め、そのことを「悔い改め」として宣べ伝えたのです。
        *
 「悔い改め」とは、原語のギリシア語では“メタノイア”と言います。これは、心の方向転換という意味です。神さまを信じないで生きる心と生き方から、神さまを信じて生きる心と生き方に人生を方向転換する、という意味です。それを更に掘り下げると、自分の意思と力で善い行いをして、その結果として神に認められようとする生き方ではなく、自分の力で自分を救えない自分を、神が常に愛してくださっていることを信じ、“神の愛”に頼み、感謝して生きていく生き方へと転換するということです。
 この3月から4月にかけて、2名、いや3名の青年が洗礼を受ける準備を進めています。洗礼とは、メタノイア、心の方向転換を形に表したものであり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、どんな時も自分は神さまに愛されていることに気づき、信じ、感謝して生きていくという決心の表われです。それは3名の青年にとっても大きな喜びであり、また、洗礼を受け、この教会に、教会員として加わる青年が3名も与えられるというのは、私たちにとっても、この上なく大きな喜びです。
 神の愛が満ちあふれ、その愛の下に人が喜び、感謝して生き、互いに愛し合うところを神の国と呼びます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエス「悔い改め」を通して、神の愛の世界に、私たちを招いておられるのです。あなたが気づけば、あなたにも「時」は満ちています。悔い改めの時は来ています。

 

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