坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

  • 2022年3月13日 受難節第2主日礼拝説教

       「心に宿るイエス       
聖 書 マルコによる福音書3章20~27節
説教者 山岡 創牧師

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。


「心に宿るイエス
 門の神ズールと鍵の神ビンツが交わる時、異世界の扉が開き、破壊神ゴーザがこの世に降臨(こうりん)する‥‥‥。いったい何の話?と、皆さん、思われたことでしょう。この話がピンッと来た人は、1984年に公開されたコメディ映画を見たことのある人です。〈ゴースト・バスターズ〉という映画です。霊体(幽霊、おばけ)現象を研究している3人の研究者が、幽霊を退治するゴースト・バスターズという会社を設立し、ニューヨークで怪奇現象を起こすゴーストを退治する話です。
 ニューヨークには、ある人物によってゴーストの集合地点となるべく建てられたビルがありました。そのビルに住んでいたディナとルイスという男女に、門の神ズールと鍵の神ビンツが取りつきます。そして、二人が交わることで破壊神ゴーザがビルの屋上に女性の姿で降臨します。その前に立ちはだかるゴースト・バスターズ。彼らはレーザー光線で異世界の入口を破壊し、ゴーザを元の世界に戻します。そして、ズールとビンツに取りつかれていた二人をゴーストから解放し、街を救う、というストーリーです。
 ゴースト・バスターズ。主イエスも言うなれば、2千年前のユダヤで活躍された“ゴースト・バスター”でした。主イエスは、人の心に取りついている悪霊を、「略奪する」(27節)というほどの“愛の力”で追い出し、人の魂を解放なさったのです。
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とは言え、主イエスの活動は律法学者たちから、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22節)と非難、中傷を浴びせられました。律法学者と言えば、当時のユダヤ教の権威です。その権威からそのように言われたのですから、家族もその言葉を信じ、イエス「気が変になっている」(21節)と思い込み、取り押さえに来ました。けれども、主イエスがなさっていたことの本質は、果たしてそういうことだったのでしょうか?
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(ふくいん)を信じなさい」(1章15節)。先週の礼拝でこの御(み)言葉をいただきましたが、こう言って、主イエスは病人を癒(いや)し、悪霊に取りつかれている人の魂を解放しました。律法学者は、主イエスのことを、安息日(あんそくび)の掟を守らず、汚れた人間に近づき、神を冒涜(ぼうとく)する人間として、つまり律法の違反者として非難しました。とは言っても、主イエスが多くの人々から悪霊を追い出して、それらの人々の魂を解放し、喜ばれている事実そのものを否定することができません。だから、律法学者たちは、あれは悪霊の頭ベルゼブルの力でやっていることだ、奴は悪霊の頭に取りつかれているんだ!と主イエスご自身を否定しようとしたのです。
 それに対して主イエスは言われます。神の国を遠ざけようとして、悪霊たちは人の魂の支配を広げ、悪霊の国、サタンの国をつくろうとしている。それなのに、その悪霊の頭自ら、下っ端の悪霊を追い出すようなことをすれば、悪霊の国は成り立たない。内輪もめで自滅する。だから、わたしはベルゼブルに取りつかれているのではない。
とは言え、悪霊の支配はとても強力だ。だから、わたしはもっと大きな力で、神の霊の力で悪霊を縛り上げ、追い出し、悪霊からその人を奪い取る。その人の魂を悪霊から略奪し、解放するのだ。主イエスはそのように反論しておられるのです。
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 ところで、現代人である私たちにとって、悪霊とは、悪霊に支配されているとは、どのような現実でしょうか?もちろん、ゴースト・バスターズのような怪奇現象のことではないと思います。コメディでは済まない心の苦しみ、不安、歪(ひず)みがあります。
 現代における悪霊。例えば、人の悪口を言ったり、いじめたりする意地悪とか、人を否定し、排除しようとする独善性とか、周りや環境のせいにする責任転嫁とか、自分の非を認めず、正当化する自己弁護とか、人をうらやみ、足を引っ張ろうとするねたみとか、人と自分を比べ、誇ったり、落ち込んだりする優越感や劣等感とか、行いがすべて、金と力がすべてと考える価値観とか、自分の利益だけを考える身勝手さとか、物事をマイナスに考える思考とか、自分には価値がないと蔑(さげす)む自己否定とか‥‥‥挙げていったら、私たちの心を支配する“現代の悪霊”って、いっぱいいます。そして、そういう思考、価値観、生き方に毒されると簡単には抜け出せない。心が病むことさえあります。
 そのような強力な支配から、主イエスは、私たちの魂を解放しようと今も語りかけてくださっているのです。聖書を通して私たちの心に、悪霊が追い出されるほどの大切なものが宿るように、私たちが変われるように教え導いてくださいます。
 大切なものとは何でしょう?それは、ずばり“愛”です。私たちは、自分がどんな人間でも、また世界(環境)がどんな場合でも、無条件に、無償で、神さまに愛されている存在です。神さまは愛を注いで私たちを造り、愛によって導き、支えてくださっている。その愛を信じることで、私たちの心に神の愛が宿る。その愛によって私たちは愛の実を結ぶ。その愛を信じるからこそ、どんな時でも自分の存在価値を、生きる意味を、自分がこの世に、だれかに必要とされていることを、自分が世界に貢献できることを信じることができるのです。神の愛を信じるからこそ、私たちは隣人を愛し、互いに愛し合うことへと導かれるのです。
 強力な悪霊の支配を自分の内から追い出すもの、それは“愛”です。愛の霊です。愛を信じることです。愛はどんなものをも満たし、またどんなものをも打ち破ります。最後に勝利するものは愛です。主イエスは、聖書は、私たちにそう語りかけます。
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 習慣にしている朝読書で、スティーブン・コヴィー氏の著書『7つの習慣』を読み終えました。色々なことを教えられました。特に、「互いに愛し合いなさい」との御言葉の新たな面に目が開かれた思いがします。私は、愛するということは、時には相手に譲り、自分を引っ込めて我慢することだと考えていました。けれども、この本を読んで、互いに愛し合うとは、片方が、だれかが我慢するのではなく、お互いにとってWin‐Winの道を見つけ、実行することだと発見したのです。違う考えや意見を持っている人間同士でも、必ずお互いがWin‐Winになれる“第3の道”があることを信じる。そして、まず相手を理解することから始め、次に自分の思いも打ち明けて理解してもらう。お互いに相手の思いを理解し合い、Win‐Winの道を模索する。そこには、とても大きな相乗効果、愛の実りが生まれ、お互いに喜び、更に信頼関係を深めることができる。本当にそうだ!私は、そんな愛に今、心を奪われています。愛のすばらしさを感じています。
 コヴィー氏は最後に、こう書いています。やっぱり信仰の人だなぁ、と思います。
この世は貧民窟(ひんみんくつ)から人々を連れ出そうとするが、主(神)は人々から邪悪や汚れた面を取り去り、自分自身で貧民窟から抜け出られるようにする。(上掲書466頁)
 主イエス・キリストは、私たちの心を愛の霊に満たし、邪悪や汚れた面を心から取り去り、悪霊に支配された心の貧民窟から抜け出し、愛の世界で生きることができるようにしてくださる。どうか主イエスの霊が、愛の霊が、私たちの心に宿りますように。

 

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