坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年4月24日 主日礼拝説教   「救いに入れるために」

聖 書 使徒言行録17章30~34節

説教者 山岡 創牧師
30さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔(く)い改めるようにと、命じておられます。31それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁(さば)く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」32死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。33それで、パウロはその場を立ち去った。34しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
「救いに入れるために」
「神は‥‥先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」と31節に記されています。“神の裁きの日”がある。キリスト教ではそのように信じています。それは、使徒信条で、そこから(キリストが)こられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます、と私たちが告白をしているとおりです。
 神の裁き、と言われると、私たちは何だか怖(こわ)くなります。裁きの日とは地獄に落とされる“恐怖の日”なのでしょうか?いや、私たちにとって“救いの日”のはずです。
         
 パウロは、キリストの救いを宣べ伝えるために、ギリシアのアテネにやって来ました。そこでパウロは、神が「この世を正しく裁く日」を語りました。神がお造(つく)りになり、「極(きわ)めて良かった」(創世記1章31節)と満足されたこの世界で、しかし最初の人アダムとエヴァが神さまに背(そむ)いて罪を犯(おか)してしまいます。その時以来、人間の罪の歴史が始まりました。けれども、神さまは人間とこの世界を救おうとして、ご自分の独り子であるイエス・キリストを遣わされました。そして、キリストが十字架に架かり、その命をささげることで、人間の罪を帳消しにし、赦(ゆる)そうとお決めになったのです。そして、このキリストと人がどのような関わりを持ったかによって、この世を裁く日、人を裁く日をお決めになったのです。この世界はその裁きの日に向かって進んでいる‥‥‥。それが私たちの“世界”に対する信仰、“歴史”に対する信仰です。
 裁きの日とか「復活」(31節)とか言うと、アテネの人々のように、ナンセンス!とあざ笑う現代人も少なからずいると思います。けれども、私たちにとって大切なことは、この信仰をどのように受け取って、“現代人”として自分の生き方、心の持ち方に結び付けていくか、だと思うのです。
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 神の裁きの日を信じようとする時、大事な点が二つあると思います。それがどんな内容の裁きなのか、ということ。そして、その日がいつ来るのか、ということです。
 神の裁きとはどんな内容なのでしょうか?裁きと聞くと、私たちはどちらかと言えば、有罪判決をイメージするのではないか、と思われます。だから、神さまに裁かれる、有罪にされる、罰を与えられる、と考えて、怖くなるのではないでしょうか。
 けれども、裁きには無罪判決もあります。そして神の裁きとは、人を悔い改めに導いて無罪判決を下すための裁きだと私は受け取っています。
 主イエスが十字架に架けられた時、別に二人の犯罪者も十字架に架けられました。一人は自分を正当化して、主イエスに悪態をつきました。けれども、もう一人はそれをたしなめて、主イエスの前で悔(く)い改めました。とは言え、自分が神さまに赦されるとは到底思えない。救ってくださいなんて、とても言えない。ところが、主イエスはその人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23章43節)と宣言し、救いを約束してくださったのです。人生の土壇場での無罪判決です。
すべての人を救いたい。それが神さまの御心です。そのために神さまは膨大な愛を、私たちとこの世界に注いてくださいました。主イエス・キリストによって、またその十字架を通して、見返りを求めない、無償の、無条件の愛を、私たちに与えてくださいました。そして、私たちすべての人間がこの愛を信じて自分の罪を悔い改めるようにと、待って、待って、待って‥‥膨大な時間を費(つい)やしてくださっているのです。それが神の裁きなのです。神の裁きって何ですか?それは神の“愛”だ!私はそう言いたいです。
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 さて、もう一つの大事な点は、その日がいつ来るかということです。それは歴史の先に定められていて、いつなのかは誰にも分からない。だから、その日が“明日”来てもいいように、神の愛と赦しを信じて信仰生活を歩むというのが、定番の信仰です。
 けれども、先ほど十字架に架けられた犯罪者が死の直前に救われたように、自分の命の終わりの日を、“裁きの日”だと受け止めてもよいのではないでしょうか。そして、その時、私たちが自分の人生をどのように受け止めているかが神に問われると思うのです。
 『余命10年』。今、話題の小説が映画化されたものを、先日ワカバウォークのシネマで見てきました。余命10年、その10年をどのように生きるか、どんな思いで生きるか、見る者に問いかけて来ます。
 20代前半の主人公・高林茉莉(たかばやし まつり)は、肺動脈性肺高血圧症という、数万人に一人という不治の病(やまい)におかされます。この病にかかったら10年生きられた人はいない。そんな病を負って、茉莉は、思い切り働きたくても働けない。本気でだれかを好きになりたくてもなれない。けれども、同窓会で再会した真部和人(まなべ かずと)とつながりができ、突き放しながらも、やがて茉莉の病を知った和人から、それでも告白されて、二人は恋をし、付き合うようになります。けれども、やがて病は進み、茉莉は和人に別れを告げます。そんな茉莉が母親にしがみつき、涙を流しながら、悲しみを漏らすシーンがあります。どうして私なの?死にたくない。もっと生きていたい。人を好きになりたい。結婚もしたい‥‥‥。
 あぁ、それが人の心の底からの叫びだと思いました。最近何度か、感謝するから幸せなのです、ということをお話しました。そのとおりだとは思うのです。けれども、感謝するということは、そんなに簡単な、単純なことではない。すぐには感謝できない時が少なからずある。そして、この言葉が、“感謝しなければならない”という縛りになって、人の心の悲しみや不平や不安を封じる言葉になってはいけない、そう思いました。
 不平を漏(も)らしてもいい。不安を感じてもいい。悲しみに打ちひしがれることがあってもいい。不平をたくさん漏らして、人は感謝することの大切さに気づくのだと思うのです。悲しみと不安を感じ、多くの涙を流したその先で、私たちは感謝と幸せにたどり着けるのだと思うのです。そのことを、この映画から教えられました。
 ライターだった主人公は、余命10年を生きた自分の人生を書き残します。そして、小説の最後にこう書きます。“わたし、幸せだったよ”と。
 不平を漏らす時、そんな自分に気づいて、感謝することに戻れたら。不安と悲しみを感じる時、喜びがあることを信じられたら。そして、最後に“わたし、幸せだったよ”と言えたら‥‥私たちクリスチャンにとって、それは神の愛を信じているからこそ言える言葉だと思うのです。そしてそれは、不平から感謝へ、不幸から幸せへと「悔い改め」(30節)ている、心を方向転換しているということだと言ってよいでしょう。
不平から感謝へ、不幸から幸せへと悔い改めて、“わたし、幸せだったよ”と思えたら、その人の人生はきっと救われています。そして、幸せだったと思える平安な気持が天国を呼ぶのではないでしょうか。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださるキリストを信じて、平安に逝けるのではないでしょうか。それが、神の裁き、救いへと招く裁きなのではないかと私は思うのです。

 

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